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Kuroshio 107

与那国島よりスンダランドを望む

 デイビッド・リーンの映画は、冒頭に圧倒的に雄大な景色を撮影して映画のテーマを印象づける。「ライアンの娘」もアイルランドの白亜の海壁をまず空撮して、近くの岬の上で両手を広げる娘を大写しにして迫力を出しているし、「アラビアのローレンス」では、砂山の先をカメラが辿っていくと、突然大型貨物船が登場して、スエズ運河が画面一杯に広がり、砂漠の中を船が横切るように航行する構成で圧倒する大画面にしている。「インドへの道」のカシミールの美しい山嶺の描写も心に残る。筆者は、黒潮文明論を反芻するために、十二月の下旬に久しぶりに、黒潮の発祥を直接観察できる与那国島に一泊の小旅行を敢行したが、石垣から与那国島への飛行は、リーンの映画の冒頭
のようなパノラマが展開した。那覇から石垣空港までは、ボーイングの737で快適に洋上飛行する。石垣空港は移設されて滑走路を延長したから、以前のようにブレーキのきしみ音を引きずりながら着陸して、滑走路の端でようや
く停止する危なっかしさは気配もない。ボンバルディア社の小型高翼のプロペラ機に乗り換えて、難なく離陸して与那国島に向かうが、冬の季節風を横風にして、西表島の上空を飛んでいるときは、小刻みに揺れながら飛行する。完全に白色以外に何一つ見えない雲海の中である。雲の上に翼の端が出たかと思うとすぐに下降を始める。与那国島の北側の海岸線に沿うように飛ぶ頃に視界が開けて、島の東端の高台にある灯台が見える。灯台の周囲は絶壁となっていて、北側の海岸に、珊瑚礁がへばりつくように少しばかりあり、そこに白波が砕けているのが見える。石垣のようにコバルトブルーの大珊瑚礁地帯があるわけではないから、観光地としての魅力は乏しい。飛行機は、島の西の端まで飛んでから旋回して空港には南側から着陸した。与那国空港も滑走路を延長したから、本当は、ボーイングの737型機で那覇から直行させることも可能だろうが、採算のことで石垣空港乗り換えで小型機で中継して運航しているのだろう。空港の食堂には、年に僅かに数回与那国島から遠望できる台湾の三千メートルの山々が屏風のように連なっている写真が張り出してあったが、それこそ、リーンの映画のような景色であるが、今回も霧と雲が晴れることはなく、現実の眺望はなかった。防空識別圏は、領土とは関係が無いとされるが、与那国島の半分が、台湾の防空識別圏に入っていたし、周辺の航空情報を提供する空域としては、今でも台湾の航空当局が担当しており、与那国島と、台湾の北東岸にある花蓮市との距離は、僅かに百十一キロである。その間を,黒潮が滔々と北流する。昭和の初期には東洋一と呼ばれる鰹節工場もあった。カジキマグロの水揚げは、今でも日本一の水揚げ高である。老人と海のように、サバ二に乗って、マグロを追っかける海人のビデオを見た記憶がある。黒潮は、一部は島の東側では南流していると言われ、与那国島は、黒潮に取り囲まれている。水温が高い黒潮は水蒸気を発し、それが雲霧となって、冬も夏も、いつの季節も、台湾の高山を見えない状態にしているに違いないし、ホテルの窓から見ると岬のへさきに打ち付ける波頭は十メートルは優に越えていて、冬場は特に荒海であることがわかる。戦前は台湾銀行券の使用が例外的に与那国では認められていたし、戦後の一時期は、密貿易ながら国境貿易が盛んに行われたように台湾との間で、人と物との往来は絶えたことはなかったから、国税たる関税を石垣まで出かけて銀行に支払うことをしなくても、大正十五年に設置された島の郵便局の窓口に納入できるように改善が行われたこともあった。百十一キロの距離であれば、見通し内で、マイクロ波の通信回線もきっと設定できるし、今は、石垣から西表島を経由して、電話も放送の電波も中継されている。光海底ケーブルを設置するとすれば、黒潮を横切る大工事になることは必至であるが、与那国島と花蓮等の台湾東部と情報通信や経済面で同期させることも可能だ。余談になるが、日本最西端の碑が建立されているが、この碑は、国や県や町が建てたものではなく、島の学校の卒業生が建てている。ちなみに、与那国小学校は、なんと明治十八年に創立された学校で、まもなく創立以来百三十年になる。島には高校がないから、若者中学は中学を出て島外に出るしかない残念な状況である。碑は日本の涯にあって、真の防人を自負する島の誇りと団結とを示している。

 今回、池閒苗氏に再会できた。大正八年生で九十四歳になられた司馬遼太郎が、「街道を行く」の中で同氏のことを書いた。沖縄県立第一高等女学校三学年在学中に熊本逓信講習所に入所して同所終了後、無線通信技師、つまり、日本初の女性の無線通信士として、終戦まで与那国郵便局に勤務した。
与那国で黄色いビートルの車に乗っていたことを聞いて驚いた。「与那国ことば辞典」を出版されたのは平成十一年で,一冊頂戴して大切にしている。南の島影にはダイビング船を穏やかに錨泊させていた。近年発見された海底遺跡は人類の起源の歴史をも書き換えつつあるが、我が黒潮文明論もいよいよスンダランドの探求に向かう。(つづく)

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コメント

Kuroshio 107の記事、懐かしい思いでが蘇ります。池間 苗さんお元気でしょうか。
是非一度訪ねたいと思いながら実現していません。
○ 昔、国際通り百貨店で開催の「先島諸島物産展」でお会いし、「与那国の歴史」(池間栄三著)を紹介してもらいました。平成10年6月5日郵政事業記念式典で再会、二人の記念写真を本に張っています。「与那国ことば辞典」方言がわからず理解困難です。チルド便でカジキマグロをいただいたこともありました。
Coralwayを購読、旅の気分になっています。(記事に載ったこともありました。)
○4月から町内会長(自主防災会長)となり、家を留守にできなくなりました。
 8.20広島土砂災害、私の家から南東約10km方向に集中豪雨。八木三丁目土石流の新聞写真で谷の上部に3戸半壊の家が見えます。一番上が二男の嫁の両親の家。AM6時過ぎ頃、携帯電話で家が見えないと連絡あり。写真谷の左側を上って濁流の浅瀬を探して渡って、7時過ぎ頃両親健在確認。下隣りは一人住まいのおばあちゃん。下山は、写真右側の山を切り開き年寄3人とともに梅林小学校体育館に避難しました。
下三番目家は残念な結果。本職の山仕事の経験が役立ったのでしょう。
二男の家で両親お元気、おばあちゃん息子さん迎え。留守家庭解消で孫家族歓迎。

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