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Kuroshio 108

水没した巨大大陸スンダランド

スンダランドは現在のマレー半島、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、ベトナム沖にあった。深さ約一〇〇メートルの海域が太古の氷河期には水面上にあり、その後の海面上昇で水没したとされる広大な沖積平野のことである。インドネシアがオランダ植民地となったことから、今から九〇年前にインドネシアの海域を調査分析したモーレングラーフ博士が名付けた。調査記録はライデン自然史博物館に保存されている。海底にいくつもの谷筋が残り、そこが陸地だったことが明らかになり、東南アジアは陸続きであったことが証明された。スンダランドはインド亜大陸ほどの大きさがあった。オーストラリアとニューギニアの間の海面下に沈んだ平野はサフルランドと呼ばれ、海南島の周辺の約一〇〇メートル水深の海域もナンハイランドと名付けられているが、今の支那と朝鮮半島の間にある黄海も干上がり陸続きだった。最終氷期の末より急激な海面上昇が始まったことが世界各地の海岸地層の研究で明らかになっており、一万四〇〇〇年前には海面が現在より約一〇〇メートル下にあったのだが、一万年前までに五〇メートル上昇した。八五〇〇年前までには今の海面下二〇メートル近くまで上昇した。スンダランドの海面が最も上昇した一万年前までの海面上昇で、今の南シナ海の原形が形成され、海がシャム湾の奥深くまで陥入することになったが、その時点でも、ボルネオとスマトラとは繫がっていた。ボルネオとスマトラが海峡で切り離されたのは八五〇〇年前までの海面上昇の時で、一五〇〇年の時間が経過している。マラッカ海峡が出現したのもこの時だと考えられる。八五〇〇年前までの海面上昇はその後も続き、約八四〇〇年前に一時的に寒冷化し海面が低下したが、八〇〇〇年前からは地球上のすべての地域で急速に海面の上昇が始まった。四五〇〇年前当時の海水面は今の海岸線よりも五メートル高かった。その後は海面が徐々に低下するようになり、今の海岸線になった。アラビア海、カリブ海、マラッカ、それからオーストラリアのグレイトバリアーリーフでの海面の動きをデータで比較すると、海面が上下して微妙に異なる変化を示しながらも、なだらかに上昇したことが分かる。グリーンランドの氷河の研究からも、氷河期終了後に三回の海面上昇があったことを証明している。黒海が地中海と繫がったのも氷河期終了以後の海面上昇の時代だ。黒海は地中海より数十メートル海面が低い内陸湖だったが、七二五〇年前にボスポラス海峡から黒海に海水がなだれ込んだ。黒海の北側は海面が上昇して水没した。一説には、この黒海の海面上昇が「ノアの箱舟」の伝説に反映されたとの見方があるが、洪水伝説が中東に限らず世界中にあるのは海面上昇の反映である。北米先住民の神話にも洪水伝説があるところを見ると、北米大陸を覆っていた氷河が溶け出して大洪水となったからで、五大湖はその名残である。大陸に載った五〇〇〇メートルの厚さの氷の山塊が溶け出し、地面の荷重が減って地殻が上昇を始めたために、今の五大湖よりも大きい面積を占めたアガシズ湖が干上がって、その後に水たまりのように点々と数限りない淡水湖を出現させた。カナダの北方には今も湖が氷雪の中に点在しており、水上飛行機が主な交通手段となっている。原住民の洪水伝説は洪水のなかったマッケンジー川の側にはなく、氷河の溶けた水がなだれ込んだジェームス湾やハドソン湾のティレル海近くの部族の伝説として残ったのは当然の帰結である。北米大陸の氷河が溶け出したことは、大西洋ばかりではなく、太平洋でも急激な海面上昇を招いた。氷河の消失が地殻の歪みを生じさせて、大地震の引金にもなったのではないかと指摘されている。南極大陸の氷が溶ければ地殻の大変動が起きて、大地震を引き起こす可能性があるが、その時には、太平洋ばかりではなく世界中の海に大津波が押し寄せることになる。ちなみに、バルト海のボスニア湾の海底は今だに一〇〇年に一メートルという速度で上昇している。氷河の重みから解放された地殻が上昇するのである。

スンダランドに繋がる氷河期の人類の生活の痕跡がボルネオやマレー半島、タイやカンボジアに至る地域に残っている。ボルネオの町ミリから車で二時間ほど南のニアー国立公園にある巨大な石灰岩洞穴「ニアー洞窟」には四~一万年前の人類の生活の痕跡があり、東京ドーム二つ分の大きさだ。また、当時の気候は現在のような熱帯雨林の気候ではなく、気温が今より五度から七度は低かったとされ、海面が一〇〇メートルも低かったとすれば、気温もさらに低く、乾燥した気候と、食料が容易に採集できる森のある快適な生活環境だったことが推測される。切除用の剥片石器も出土しているが、奄美大島の土浜遺跡でも同じものが見つかっている。食べかすとしての豚、サイ、猿の骨、淡水・海水の貝殻も見つかっている。新石器時代の遺跡が、現在のタイ、カンボジア、スマトラ、モルッカ、チモール、パラワン、ルソン島などに点在しており、スンダランドの遺構として十分な数の遺跡が各地にある。与那国の海底遺跡も加えたいが、自然の岩石だとの異論もあるから、まずは台湾台北県八里郷の大坌坑(ターペンケン)遺跡の名前を挙げておきたい。香港の近くには旧石器時代からの遺跡が残る。ベトナム中部サ・フィン遺跡も注目に値する。チャム王朝があった場所に居住していた先住民遺跡で鉄器を特徴とし、甕棺の葬制も見られる。交易が広範に行なわれていたことが明らかで、ベトナムでは生産されないガラスや、カーネリアン、瑪瑙、橄欖石などの貴石、金が装飾に用いられている。漢鏡も出土している。タイのカンチャナブリの近くのバンカオ洞穴には新石器時代の生活跡があり、タイ南部のクラビの近くには、九三〇〇~七六〇〇年前まで遡るサカイ洞窟がある。サカイ洞窟からはコメが発掘され、稲作の発祥地が支那であるとの通説を覆す可能性が出た。新石器時代の中心地だったとはいえ、わざわざ寒い気候の揚子江や黄河を稲作の発祥地とするよりも、熱帯のインドシナからビルマおよびバングラデッシュにかけての気温の高い地域に発祥を求める方が、すんなりと受け入れられる。稲の栽培は、稲の容器としての陶器とその収穫道具である石器とも関連していると考えるのは理に叶っているが、考古学上でも、稲作の起源について中華思想を裏付ける証拠は何も見当たらない。稲の栽培は第三の洪水で海水面が上昇しスンダランドが海没する以前から、今のインドシナやビルマ、バングラデッシュ地域で行なわれていたと考える方が順当である。近年、タイとビルマの国境近くの内陸にあるスピリット洞窟から紀元前五〇〇〇年前のコメが発見され、この説を裏付けた。マレー半島山間部にはグアチャ洞窟などの一連の洞窟群がある。スマトラ北部のピーブロック遺跡には稲の栽培跡として水稲ばかりでなく陸稲栽培の遺跡が残る。ジャワ島のサンギランには、初期人類の集積場ともいえる大遺跡がり、世界遺産に登録された。ジャワ島の古都ソロの近くである。ジャワ原人の頭蓋骨、歯、大腿骨の化石が発見され、一五〇~一万年前ころまでのメガントロプス、ジャワ原人、ホモ・エレクトゥスなどの初期人類の化石が多数見つかっている。その一部は地元のサンギラン博物館で公開されている。ボルネオのニア洞窟については先述したが、グアシレの洞窟が、マレーシアのサラワク州の州都クチンの西部にある。グアシレの洞窟で発見された壷の中からも紀元前二三三四年のコメが発見されている。ボルネオのサバ州のマハカム川上流の遺跡では、一〇〇〇年以上も前の舟形の棺に入った大量の人骨が発掘された。フィリピンのパラワン島のタホン洞窟では四万五〇〇〇年を遡る甕に入れられた葬制の跡が見つかっている。近くのドゥヨン洞窟ではうつぶせにして葬られた人骨が副葬品と共に発掘されている。ボルネオ島の東北部のマレーシアのサバ州、センポルナの町の一〇キロ南にブキット・テンコラックという遺跡があるが、これは新石器時代の製陶工場の跡としては東南アジア最大規模の遺跡である。

 スマトラやジャワやフィリピンには、かつてはスンダランドの高地の一部であったと思われる遺跡が残っているが、それらに共通するのが小動物を射止めるための吹矢である。吹矢は台湾にはないが、インド洋を隔ててマダガスカルにはある。パブアニューギニアの海岸線沿いに点々と残り、日本の南九州にもある。樹皮布はインドネシアに残るが、今ではオセアニアのポリネシア、メラネシア、ミクロネシアで伝統的に作られている。タヒチ語でタパと呼ばれ、またカパ(ハワイ語)、ンガトゥ(トンガ語)、マシ(フィジー語)、シアポ(サモア語)などとも呼ばれているが、樹皮布原料にはクワ科のカジノキ、パンノキ、イチジクなどが使われ、カジノキはポリネシア全域に広がる一般的な原料である。日本でも今では三椏(みつまた)や楮を(こうぞ)和紙の原料とすることが普通になったが、元来カジノキが原料であった。広東省の珠江デルタでも樹皮紙がつくられた遺跡が発掘されている。

 筆者はバンコクの日本大使館に勤務したことがあるが、大使公邸が落成して、その玄関に飾られたタイの東北部のバンチェンで発掘された淡いピンク色の渦巻き模様の古陶器を見て驚いたことがある。その陶器がタイ東北部の大平原で生産されたにもかかわらず、教科書で習ったメソポタミアの彩陶に似ていたからだ。バンチェン遺跡は八〇〇〇~七五〇〇年前に起源があるが、インド洋を隔てたメソポタミアとタイのバンチェンの陶器が似ているとすれば、両者の間に何らかの交流があったとも考えられる。マラッカ海峡が洪水で開かれ、スンダランドの後裔が製陶技術を携えてメソポタミアに渡った可能性も想像できる。アラビア海の海岸線は少し後退したが、紀元前三〇〇〇年ころに最も栄えたウルは当時の海岸線にある港町だった。 (つづく)

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