Kuroshio 110
ロッキー山脈東麓の街ボルダー
初めて米国に行ったのは、東京オリンピックの五年後、昭和四四年(一九六九)のことだ。さほど昔ではないが、四〇年以上が経って、オリンピックをま
た東京で開催することになったのは驚きだ。太平洋路線にはプロペラ機に代わってダグラス社製のジェット機、DC・8が就航していた。最近の国際線の大
型機に比べればうんと小ぶり細身の飛行機で、近く退役する尾翼が高翼でエンジンが主翼になく胴体の最後部にあるのが特徴で、DC・9と同じくらいの大
きさだったか。成田空港は完成しておらず、羽田からの出発で、アラスカのア
ンカレッジで給油をして、サンフランシスコ近くのサクラメントの飛行場に降り立った。本当の民間航空機ではなく、ベトナムでの戦争がまだ続いていたから兵員輸送のために設立された会社の飛行機で、帰り便の空きを留学生に使わせて、日米間の交流を図ろうとの大目的にも貢献し経費も浮かせられるという一挙両得の航路であったようで、サクラメントに空軍基地があったから着陸したに違いない。ドナルド・キーン先生などが関わった、捕虜の兵士を尋問したり、日記を解析したりした戦争中のトレーシーのプロジェクトがあったのもサンフランシスコ湾の北のはずれだったから、日米間の文化交流の本質を理解する知恵者が、近傍のスタンフォードあたりに住んでいたからだろうか。一ドル三六〇円の為替だったから、格安便と斡旋がなければ学生が海外旅行するなど不可能に近い頃だったし、実際、駐日大使となったライシャワー先生の肝入りと督励で創設された語学教育振興の財団が出した奨学金をもらった学生が多数乗客になっていた。機内では緑茶に砂糖を入れるかミルクを入れましょうかと、スチュワーデスが親切に聞くサービスもあったし、アンカレッジでは空港内にうどん屋があり、免税店の売り子は、ほとんどが戦争花嫁さんになって渡米した日本人女性だったから、日米の往来が急速に増えてきた時代だった。語学教育振興の学生の方はフルブライト留学制度のように厳格ではなく、観光と物見遊山の要素も入った旅程になっていたから、サクラメント着陸後は、サンフランシスコの中華街でランチをしたり、ラスベガス近郊のリノでカジノ体験をしたり、ソールトレイク近くの町でカトリックの人の家に泊まって、モルモンの人はミルクを飲まないなどと教えてもらったりしながら、大陸をバスで横断する旅になって、ロッキー山脈の麓の町のボルダーに向かった。州都デンバーの北方一八〇〇メートルくらいの高地にあったから、ワンマイルハイシティという別名がついていた。乾燥し切ってはいたが快適な場所で大学都市となっていたし、いろいろな研究機関が立地して、世界標準時に関わる米国国家標準局があって原子時計を管理していた。IBMの研究所もあり、障害者がコンピュータの配線の作業をしていたのが印象に残る。日本では弱者に対する配慮がそれほどなかった時代だ。小型航空機を専門とするビーチクラフトの工場がスペースシャトルの先端部を製造していたらしく、高度な機密があったせいか、機関銃をもった警備員が連れ添って工場見学をするようなところもあった。コロラド大学にイギリス人の経済学者のケネス・ボウルディング氏が所長を務めるエコノミクス・インスティチュートなる組織があって、世界中から英語を習いに来る学生の受皿になっていたから、そこに向かった。ボウルディング教授の著書は『二十世紀の意味─偉大なる転換』という題で、岩波新書に邦訳されていた。世界が急速に縮小していることが実感できる時代だった。サウジアラビアからの学生などは絹のターバンは脱いではいたが、外交官パスポートで入国させていた位に、積極的な対中東政策が始まっていた。クウェートで働いているというパレスチナ人も英語を習うために学生となって来ていた。ともあれ、ボルダーはロッキー山脈山麓の東側の乾燥地だったから、中東からの学生にとっては快適この上ない場所だったと思う。ケネディ政権が月に人類を送り込んだ日にテレビ中継があって、大学の寮のロビーでマンオンザムーンという文句が飛び交った。コロラド大学は宇宙飛行士の故エリソン・鬼塚氏の母校だった。『グレンミラー物語』という映画の舞台となったのはこの町がジャズのグレン・ミラーの出身地だったからだ。リゾート地での夕暮れのコンサートを聴いたり金を掘りまくった鉱山跡地を訪れると、開拓者魂を(フロンティアスピリット)感じることができた。大陸横断鉄道の建設に従事して倒れた日本人の墓地もあった。リンゴ酢でつくった不思議な味の巻き寿司をご馳走になったことも忘れられない思い出である。
バスの前列に白人以外が座るのは、日本人を除きご法度だった。日露戦争があり、日米戦争があったお蔭だと思う。ジョージア州のマドックス知事が黒人を殴って非難された頃で、知事公舎の前のベンチは人種差別がはっきりしていて、どちらに座るか戸惑った。日本海で情報艦プエブロ号が拿捕され、乗組員家族の母親が幼児二人の手を引き大平原の実家に帰る光景を大陸横断のバスの中で見かけた。(つづく)
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