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Kuroshio 113

忘れまじ吐噶喇(とから)の島々

有吉佐和子の小説に『私は忘れない』と題する作品がある。女優の卵が、「忘れられた島」となった黒島に旅立つ。台風で船が来なくなって、台風でやられた後の復旧活動をするために島に残る。「島を忘れないで下さい」という言葉に見送られて帰京する。島のことを忘れず、自らの人生を切り開いていくという筋書きだ。現実には、遠く離れた島を私は忘れないと決意しても、都会の喧騒にまぎれて間々忘れてしまう。ましてや、飛行機の定期便のない島は、ななか帰ることも難しいから、忘れてしまいがちだ。選挙があっても、船で行くような島に選挙運動でわざわざ渡っていく政治家があれば、奇特な政治家と呼ばれるほどだ。鹿児島の県知事もヘリコプター代を誰が出したかと詮索され始末だった。船で出かける政治家など見たことがない。沖縄でも、連絡船が島伝いに通っていて飛行機の直通便がなかった時代には、北隣の奄美の々や南の宮古・八重山にも巡航船で出かけるしか方法がなかったから、それなりに親しみを感じる南方同胞の気分が強かったのだが、もう奄美と沖縄とが文化を共有することを知らない若者もいて、言葉が似てますねと平気で言うから、いやティーチ(ひとつで同じ)ムンですよ、と強弁せざるを得ないことも稀ではない。残念なことだ。沖縄と宮古・石垣との航路は、貨物船ばかりになって客船がなくなったことには驚かされる。台湾航路も、有村運輸の故有村喬社長が、飛龍という名前の大型のフェリーを建造して基隆(きーるん)航路に投入したが、世の中が不景気になって、僅かの額の資金繰りがつかずに倒産した。運輸行政も助けようとしなかったことは、島々のことを忘れてしまえとの無慈悲な力が働いていた可能性が高い。とあるリース会社の社長は、島で食えなければ、東京に出ればいい、東京で食えなければニューヨークに行けばいいと、拝金の下劣を露骨にテレビ画面で説教していたが、僅かに一〇年前のことだ。奄美の各島にも、宮古も石垣にも飛行場があるから、東京や那覇や鹿児島との往来は便利になったが、小さな島同士のお互いの往来は却って不便だ。沖縄と台湾も、那覇と台北には行けても、もう与那国や石垣と台湾の花蓮との行き来はほとんどない。

飛行場がないので、村営の定期船によって訪問するか、ヘリコプターをチャーターするかなどの尋常ではない手段でしか行けないのが、馬毛島、口之永良部島、竹島、硫黄島、黒島からなる三島と吐噶喇(とから)列島の島々である。奄美の隣島の人も、王国の本家であった沖縄の県民も、吐噶喇の島々は上空を通り過ぎるだけになってしまった。

筆者もやはり、「私は忘れない」ことを誓って、わが黒潮文明論には島々の概略を書き留めて措きたい。まず、口之永良部島は、奄美の沖永良部島と対になった呼び名である。口は錦江湾への入口を示しているようだ。島の本村には奥行き二キロの天然の港があり、薩摩藩は異国船番所を置いていた。九州と琉球とを往来する船は必ず寄港した程の良港だ。竹島は全島が琉球竹に覆われているから竹の島である。遣唐使の高田首根麻呂(たかだのおびとねまろ)を祭る社もある。硫黄島と大陸の宋との間の硫黄貿易についてすでに書いた。もともと黒島は黒尾嶋と言った。冒頭に紹介した小説の舞台である。吐噶喇列島とは口之島、中之島、臥蛇島,平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島、横当島である。横当島は無人島だったし、宝島と子宝島をひとまとめにして数えるから七島と言い、海は七島灘というくらいの急潮であり、特に季節風の時期には難所である。口之島は七島の北端にあり、昭和二一年に日本本土から七島以南が切り離されたときに、密航の中継港となって、ヤミ貿易でにぎわった。七島は、奄美の復帰より二年早く昭和二六年に本土に復帰している。中之島には、見通し外の無線中継局が設置された。トカラ馬は元は喜界島から導入された。臥蛇島は、今は無人島になっているが、犬がいなかったので、島の子が鹿児島に出て初めて犬を見て、猛獣がいると言ったとのまことしやかな話を聞いたことがあった。悪石島には仮面の祭りがある。仮面のボゼが現れて、盆踊りを壊す。ニューギニアの仮面神が渡来の仏教にあらがっているかのようだ。悪石島と宝島の間に「渡瀬線」という、ハブなど九州本土と沖縄・奄美群島との動植物の分布境界線がある。両島の間には水深一〇〇〇メートルの「トカラギャップ」と呼ばれる海裂が横たわっており、これが「渡瀬線」の原因だろう。子宝島には、沖縄の久高島から来た人が夜光貝などを獲ったときに利用した入江が久高泊の名で残る。宝島には、縄文時代の遺跡や黒潮の禊ぎの場所の干瀬(ひせ)がある。異国船打ち払い令が出たのは文政七年(一八二四)の宝島での英国捕鯨船の銃撃事件に対して薩摩の役人が反撃した事件が契機となった。孫崎紀子氏はかつて本誌上で「トカラ国から来たペルシア人ダラとその一行が南島路を通り、熟練の航海士も悩まされる七島灘で遭難、流れ着いた先が宝島つまりトカラ島」という仮説を主張し、七島正月はササン朝ペルシアを偲ばせるゾロアスターの暦に基づく行事と指摘した。

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コメント

トカラ列島は懐かしい呼び名です。火の島が連なっているのだろうと想像しました。
若い時長期入院、岩波書店「図書」の連載に、不思議な漢字が印象に残っています。
訪ねる機会もなく、沖縄行き飛行機から探しますが、確認できていません。
伊能忠敬の測量地域外であり、琉球国の領域とわかります。
インターネットで検索すると、地元を大切に生活されている人々のこと知りました。
「飛龍」は、三菱下関造船所で建造と思います。進水式に呼んでもらった気がします。
パーティは遠慮しましたが、懐かしい名前と、その後経営の厳しさを漏れ聞きました。
船内見学の機会はありませんが、シーサーが置かれている話も聞いた気もします。
黒潮文明伝搬役割を果たし、今は静かな日々でしょうか。
宮本常一「忘れられた日本人」を思い起させます。

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