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Kuroshio 114

韓国大型フェリー沈没事故
 
 四月十六日の午前八時五十八分頃、朝鮮半島、羅南道珍島郡の観梅島沖で、清海鎮(チヨンヘジン)海運所属の大型フェリー世越(セウォル)が転覆して後に沈没し、数百人の死者・行方不明者が出る大惨事が発生した。世越(セウォル)には、修学旅行中の安山市檀園高等学校二年生三百二十五人と引率教員十四人、一般乗客百八人と船の乗組員二十九人、計四百七十六人が乗船していた。現場は水深が二十七メートルから五十メートル程で深海ではないが、目立った暗礁はない海域で、当日の気象も午前中は視界良好、波高は僅かに一メートルで、航行に影響する自然条件はなかった。救出の為のボート等が走り回っている映像をみても確かに大波・高波はない。本船に設備されているはずの救命筏や救命艇の姿が見られなかったが、水圧で膨らむ筈の救命艇が四十六艘設置されていたが使われたのは一艘のみだ。テレビキャスターがヨットで太平洋横断に乗り出し、浸水・船体放棄をした後に、海上自衛隊の飛行艇が救出した時の海況よりも、遙かに穏やかであった。海運会社の実質オーナーは、新興邪教を主宰して、信者三十二人の集団自殺事件を起こして懲役刑を受けた人物であるという。
 韓国ではこれまでも大海難事故が発生している。二十年前の一九九三年に、全羅北道扶安郡蝟島(ウィド)付近の海上でフェリー西海(ソへ)が沈没した。十月十日、悪天候にもかかわらず出港して、高波の為蝟島に回航しようとし、船体が傾き転覆した。航海士が休暇のため同乗していなかった。一九七十年十二月十四日、済州島の西帰浦港を出発し、同島東端の城山浦港に寄港した後、釜山港に向かう途中に沈没した南営(ナミヨン)の事故もあった。南営は年数が二年の新造船だったが、年末年始を控えて定員三○二人のところに三三八人を乗せ、貨物も積載定量の四倍の一六〇トンを積んだ。十五日午前一時過ぎ、対馬の西百キロ付近の海上で転覆した。付近で操業していた日本漁船が乗客六人を救助しただけで、死者三百二十六人を出した。韓国海洋警察は、直前に発信したSOSを受信できなかったという失態があった。死者の数は少ないが、八七年六月に、慶尚南道巨済郡南部面海上で、観光客八六人を乗せた木造遊覧船の極東(ククドン)が火災で沈没し、二七人が死亡し、八人が行方不明となった。バスのエンジンを改造して、機関士は無資格だった。
 隣国の海難事件について関心を寄せるのは、沈没した世越が、二十年前に長崎の林兼船渠で建造され竣工して、鹿児島・沖縄航路に就航していたフェリー「なみのうえ」の後身だからだ。二〇一二年に船主のマルエーフェリー(旧社名は大島運輸。)は、商社を通じて売却した(初代のフェリーあけぼのも売却)。韓国側で改造して定員を八〇四人から九二一人に、総排水量を増加させ、二〇一三年の三月から仁川と済州島間で週二往復の定期運行を開始している。船体上後部への客室増設などは重心位置が高く後部に移動して、バランスを取るのが難しくなった可能性があり、韓国船級協会は、客室の増改築の結果、重心が五一センチ上がって復原力が低下し、積載重量の倍以上の貨物を載せていたとの復原性検査の結果を公開した。二〇〇九年李明博政権による船舶に関する規制緩和の結果の改造でもあった。船長を含む乗組員多数が逃げたのは、韓国が新羅の航海術の伝統や黒潮文明の精神を蔑ろにして陸封勢力に屈服した結末だ。世越の前身であるフェリー「なみのうえ」は、昭和三七年三月に就航した波之上丸(二四〇〇総トン)から数えると四代目で、後継としての第五代目フェリー波之上は、三菱重工業下関造船所で新技術の空気潤滑システムを装備して、二〇一二年に竣工して就航している。
 大島運輸の創業者で南海の海運王と呼ばれた有村治峯(ありむらはるみね)翁は、どんな大型船でも愛郷精神で、出身の与論島に寄港させた。東京駅前の丸の内ホテルを定宿にされ、島人(しまんちゆ)の学徒を呼んではご馳走して頑張れ(きばれよ)と激励した。大島運輸の船で印象に残るのは、何と言っても初代あけぼの丸だ。五五〇トンの船でも安定性が抜群で、多少の悪天候でも出港した。デッキを大波が洗うような時に乗船したことがあるが、船長は乗客を操舵室(ブリツヂ)に入れて寝かせてくれた。却って安心で、船の帰省を楽しみにした。船体に丸窓がなかったが、安全性を高めるための特別工夫だったのかも知れない。有村翁は、大島紬の和服姿で堂々たる恰幅の偉丈夫だったが、日頃から接待宴席を避け、那覇から田子の浦港まで富士山麓の仏閣への参詣者を大型客船で安全に輸送することにも尽力した。航海安全・奄美繁盛以外は余計だったに違いない。五十年前の昭和三七年に竣工した初代波之上丸は東京・沖縄航路に就航させたが、有村翁はお披露目として、奄美各島に回航して、徳之島では亀徳港に寄港させた。当時、大型船は接岸することができず、珊瑚礁の外に停泊した。港の中とは違ってうねりが高く、艀の伝馬船から沖合の本船に縄梯子でよじ登ったが、艀と本船の隙に少年が転落した。琉球一宮の波上宮(なみのうえぐう)の名を負う波之上丸の海員は、敢然と飛び込んで落水者を引き揚げた。少年だった筆者は、老いてなお生き永らえている。

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