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Kuroshio 121

風葬の既視感を誘う高浜神社裏手墓地

涸沼(ひぬま)からの川の流れと那珂川とが合流する地点が、水戸市川(かわ)又(また)町の地名となっている。大津波で川又の田んぼは潮をかぶった。三十センチから四十センチは地盤が沈下して、汽水が用水路を逆流するようになった。水門もあるが、満潮の時間にはサシ板を乗り越えるから嵩上げ修理が急がれるが、工事はなかなか進まない。那珂湊と那珂川の境の水門も上下駆動の仕掛けが故障したままだ。涸沼でのシジミ取りなどに影響が出る怖れがあるとして、これまで、地元住民は護岸堤防の建設に反対してきたが、これだけ地盤が沈下すれば上流で大雨が降れば大洪水になる怖れも現実味を帯びてきたから、反対論は下火になったと、田畑の見回りに来た農業人の立ち話を聞いた。相馬の野馬追見物を口実に、福島浜通りの海岸線を回ると、江戸時代に干拓した場所はほぼ例外なく津波に洗い流され、松林が防潮林としては弱かったことが証明されて、白砂青松がそれほど歴史の深い景色ではなく江戸時代の開発の時代の典型に過ぎないことが再確認できた。相馬市鹿島区に塩崎という地名があり、もう山側と思われるくらいに、海岸から一里以上は内陸に入った場所だが、川を津波が逆流して襲ったとのことで、昔の津波で潮が到達した場所を示す地名だった。豊橋の潮崎や水戸の塩崎町なども、その昔は、波打ち際にあったことの名残に違いない。沖縄の糸満市の潮崎は埋め立て地だ。汐崎は下北半島の岬の名前にある。

日本列島で海面が一番上昇したのが、六千年前のいわゆる「縄文海浸」の時代で、現在の海面より5~7メートルは高かったことが、貝塚の分布や地質調査ではっきりしている。縄文の時代には、現在の日本列島の平野は存在していなかったのである。石狩、仙台、関東、濃尾、大阪、筑後などの平野は海の底であった。だから、今は平野となっている当時の浅海は、シジミやハマグリなどの食用の貝類が湧くように生息していた豊饒の海であったことは間違いない。相馬の松川浦も、今回の大地震で地盤が沈下して、立派な内海に変貌していたのは驚きであった。

茨城県の常磐線の高浜駅の近辺は、海面が上昇していた時代には、交通の要衝の地で会ったことを想像する。霞が浦が文字通りの大湾の浅海であった時代には、その最北の湾奥の港が高浜にあった。高浜から恋瀬川(昔は信筑(しづく)の川という)を遡って筑波山に至る重要な交通路であった。常陸国風土記によれば  春の花、秋の紅葉の頃には、社郎(むらをとこ)と漁嬢(あまをとめ)とが、濱洲(はま)を逐(おひは)せて集い、舟に乗って商人(あきひと)と農夫(たひと)が行き交う風光明媚な交流の場所だったとする。常磐線の高浜 駅を東におりて左側に回り踏切を越えて、丘陵地帯の坂を登り切ったところに舟塚山古墳がある。舟塚山古墳は茨城の古墳の中でも最大級で、新治(にいはり)郡、行方(なめかた)郡、稲敷郡と称する地域の豪族の墓であろう。急な崖の上に築造されているが、その崖は、霞ヶ浦の波打ち際がそこまであった証拠の海食崖である。すぐ近くに、府中愛宕山古墳もある。少し小ぶりの古墳である。いずれも前方後円墳である。舟塚山古墳では後円の部分が南側にあり、愛宕山古墳は逆になっていて、地元の伝承では、舟塚山を港に入る舟の形をしているから入舟といい、愛宕山を出舟の形と言っている。円の部分は、舟で言えば船橋に当たり高さが方の部分より高い。前方後円墳は古墳の一形式であるが、平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特である。規模の巨大さも特徴としている。日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県から南は鹿児島県にまで及び、近年、朝鮮半島西南部にも存在することが確認されているが、その形状は、伝承の通り舟の形であるとすれば、黒潮が当時は島であった銚子の岬で大きく太平洋に向かうから、南からの船が霞が浦に入り、その一番奥の港が高浜で、そこに上陸して奥州に向かう拠点になっていたに違いない。ふたつの大きな古墳の近くには、陪冢(ばいちよう)と呼ばれる小さな墳があちらこちらに残る。先祖の墓が剥かれて畑になった嘆きも残り、陪冢という難しい言葉を、地元では誰でも今でも知っている。石岡に国分寺が置かれ、国司がはるばる赴任する際、上陸した港が高浜であったとすれば、筑波山の麓の領地を持った伊勢の国司、北畠親房も高浜を経由したのだろうか。高浜神社の裏手の崖の中腹の墓地には、海岸に風葬の跡がある南島での既視感がある。古式の鳥居のような門が結界として立っている。高浜神社には、樹齢数百年になる栗の大木があるが、栗と言えば、食用の実のなる木で縄文時代の代表だ。美濃の中津川の名産は栗きんとんであるが、菓子屋の本店が、工場も店舗も、建屋の木材を全部、栗材で豪勢に建設したことを加子母村の木材会社の社長から聞いて、見物に行ったことがある。山内丸山遺跡の材木の遺物にも栗の木があった。高浜神社は、香取神宮から神官が赴いて祭礼を続けてきた、もともと神主のいない神社だ。霞が浦の風波が荒く、鹿嶋神宮あたりに舟を出すことが難しいときには、国司一行の旅人の為の仮の宿泊あるいは祈祷の施設としてもともと建設されたのかも知れない。(つづく)

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