構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2014年10月

Gibrartar

大マスコミは、どうしたわけか報道もしないが、上場企業の株式が、外国人によ保有比率が、今年の3月末で、30.8%となり、従来持ち株比率が一番大きかった金融機関の26.7%を上回った。つまり、ニッポン株式会社の筆頭株主は、外国人となったのである。株主であるから、勿論経営に口を出してくることであるから、別の表現で言えば、少なくとも上場企業のなかには、外国人の資本家?によって支配されている会社が多数あることが予想される。日本の自動車会社と思っていたら、ヨーロッパの会社の子会社になっていたり、日本の電機会社と思っていたら、米国資本の会社であって、経営者も日本人は外国人が起用されて、業績が悪化しても居座るばかりか、尋常でない給与を支払っているなどと言う事態も生じている。金融機関の外国支配も顕著になってきている。隣国などでは、経済や企業が外国勢力にすっかり支配されてしまって、その勢力を批判論難することが難しくなったために、その風向きが批判しやすい日本、おとなしい日本論難するばかりになってきて、本当は友好国であるはずの日本を貶めるばかりの反日を煽るばかりになって...きている。うがった見方をすれば、日本に助けて欲しいとの悲鳴かも知れないが、日本側でも、何とか談話とか、朝日新聞が虚報であったと求めてもなお是正をせず、混乱に輪をかけている。マスコミの駐在支局長が,軟禁状態になってもなお音なくしていて、日本は脅せば従うとの定評ができつつあるのは残念なことである。今年6月になって、アベノミクスと呼ばれる経済政策の柱となると言われる、成長戦略、つまり、第三の矢と言われる政策を閣議決定しているが、その中でも、構造改革と称して,企業統治の在り方の強化を主張して、企業の稼ぐ力を取り戻す必要があるなどと強調しているが、外国勢力の主張を反映するものであることは間違いない。会社法も改訂され、社外重役と称する一部勢力のお目付役の役割を強化するなどのことが行われるようになった。実際にも、外国の投資家が,既に息のかかった社外重役を増員するよう求めてもいる。(外国勢力は、日本の上場企業に書簡を送りつけ、社外取締役の比率を今後三年以内に三分の一以上に引き上げることを要求しており、それが実現しない場合には、七年後の株主総会で対応すると組織的に主張していると言われる。)危うし、日本。構造改革の本丸と言われた郵政民営化等は完全に失敗をしたにもかかわらず、その株を外国勢力に売却して巨額の国民資産を外国支配にする策略が進捗していると言われる。日本が、ワンワールドの金融資本の植民地になることだけは避けなければならない。本当に日本を取り戻さなければなるまい。

外国に支配されつつある,名前だけの日本企業が何と多くなったことか。失われた二十年の経済政策は、日本を外国に売り渡したのか。
http://www.stockboard.jp/flash/sel/?sel=sel533

Unfair Tax

通信文化新報という週刊の専門紙に、春秋一話というコラムがある。今週は公正な税制とは何かと、議論をしている。郵政民営化が失政であったことは、明らかになりつつあるが、単なる税金の安易な取り立てや預金保険機構の赤字の穴埋めの魂胆があったりしたことが背景にあったのだとすると、それは醜い話になる。イコールフッティングなどと横文字を使っても、説得力はゼロである。徹底的に保護されていれば、外国でまともに研鑽を深めて競争して、日本のお国の為になろうなどとの意欲がなくなるに違いない。その昔のことだが、その業界の協会のニューヨーク駐在員が余りに英語が下手だったことが記憶に残る。.

モルガンのアナリストなどと一緒になって、早く株を売り払え、十年など待てない、郵政民営化に反対するのはけしからんと悪罵をついたが、米国政府から罰金を取られたのは、そちらの側で、(今年の初夏に、ニューヨークを訪ねてみたが、)肩で風切る姿の連中は消えてしまった。その手先...がまだ、東京に潜んでいて、またぞろ、郵政の株を売却する話を蒸し返しているようだが、まだ十年も経たない昔の闇の部分をきちんと検証してからにして欲しいものだ。国益を毀損しようとしたのは、誰だったのか。誰が首謀者か、手先は誰か。一体全体いくら損失を喫していたのか。誰が、濡れ手に粟で儲かったのか。

「税は社会の公正さの鏡

 今年4月に8%となった消費税を、来年10月からさらに引き上げ10%にするとの議論があるが、ちょっとショッキングな「税金を払わない巨大企業」(富岡幸雄著、文春新書)という本がある。国税の法人税、地方税の法人住民税、法人事業税、この三つのいわゆる法人税等の実効税率について分析したものだ。

 法定税率が38・01%(現在は35・64%)だった2013年3月期決算で、日本の有数の大企業は、いったいいくらの税金を納めたのだろうか。実効税率の低い企業は、1位が三井住友ファイナンシャルグループで、税引前利益が1479億8500万円あったが、実際に払った法人税等は300万円。実効税率負担は0・002%という。

 以下、ソフトバンク0・006%(実際に納めた法人税等の額500万円)、みずほファイナンシャルグループ0・09%(同2億2600万円)、三菱UFJファイナンシャルグループ0・31%(同5億7700万円)、みずほコーポレート銀行2・60%(同67億1400万円)、みずほ銀行3・41%(同89億8000万円)、ファーストリテイリング6・92%(同52億3300万円)、オリックス12・17%(同210億100万円)、三菱東京UFJ銀行12・46%(1093億4200万円)、キリンホールディングス12・50%(同119億9500万円)だった。

 このほか商社や自動車メーカーも続き、日本の有名な大企業が並ぶが、金融機関はオリックスを含めると10位以内に7社が入る。10年以上にわたってメガバンクは不良債権処理で、法人税を減免されてきた。さらにその実行税率の低さには驚かされる。金融機関は経営が危うくなると、社会的影響が大きいと公的資産で生き延びてきた。暗黙の政府保証と言えないこともない。

 実効税率が低いのは、様々な会計操作や政策減税、現在では大きな収入源となっている受取配当金の課税益金への不算入制度など、さらにタックス・ヘイブンの国への利益の迂回などが指摘される。

 日本郵政グループは民営化以降、約3000億円から約4500億円の法人税等を収めてきた。実効税率は法定税率に近く、固定資産税なども支払っている。ゆうちょ銀行、かんぽ生命の日本郵便への委託手数料にかかる消費税も500億円にのぼる。一方で、郵便局を通じたユニバーサルサービス義務が課されている。

 特定の企業に国民の生活に不可欠なユニバーサルサービスを義務づけるのならば、そのコストを国で補てんするか、同様の企業を含めて基金を設ける、あるいは政策減税などの方策がとられてしかるべきだろう。

 ゆうちょ銀行、かんぽ生命の新規事業には、未だに暗黙の政府保証などとの言葉で、株式が全て売却されなければ認めるべきでないとの議論があるが、他の金融機関は過疎地などから撤退し、ユニバーサルサービスの義務はない。さらに、ゆうちょ銀行、かんぽ生命には限度額がある。法人税等の実効税率の低さなどからも銀行業界の言うイコールフッティング論は的外れだろう。

 法人税は高く国際競争力を削ぐとされるが、実は大企業の実効税率は低く、諸外国と比べても決して高くないとされる。一方で、中小企業は法定税率に近い税金を納めているのが実態だ。金融緩和や円安で大企業は大きな利益を手にし、内部留保は270兆円とされるが、非正規雇用の拡大など働く人の実質賃金は増えず、中小企業も7割が赤字という状況だ。

 バブル崩壊以降、短期の利益のみ追求するアメリカ型の経営への傾斜が進み、働く人より株主重視の傾向が強まった。配当性向が増え、労働分配率の低下が進行、非正規雇用の増大で格差が拡大、富の偏向が著しい社会になったことは憂慮される。

 「税は社会の公正さの鏡」「消費税は低所得者への過酷な税制で高所得者への減税」「所得課税の欠陥を是正すれば消費税は不要」「税制の公正と正義を確立する」ことが先決という富岡氏の主張に頷く人も多いだろう。

 企業の社会的責任は経済活動を通じて雇用を確保、納税の義務を果たし国の安全保障や国民の福祉増進に寄与すること。多国籍化する企業に欧州諸国などが協力して、課税のあり方や投機マネーの規制を議論する方向に動き出していることは注目される。

Kuroshio 124

支那易姓革命と真珠争奪

易姓革命と真珠争奪

 古事記の序文を書いた太安万侶の墓は昭和五四年の一月に発見されたが、木炭で囲われた檜の棺の中に、火葬された遺骨が入っていた。その中に真珠が四個混じっていて、しかもアコヤ貝真珠で、直径三ミリから、五・四ミリまでの丸い希少性が高いものであった。真珠に焼かれた痕はないので、火葬された遺骨に後で添えられたことが分かった。現在、橿原考古学研究所附属博物館に展示されている。遺骨の鼻と口元に翡翠の玉と南海の珍しい貝をおいた、礼文島の船泊遺跡の情景と同じである。古事記が編纂された時代には、もう華美にわたる墳墓を建設することが禁止されていたが、家族が古来のしきたりを守るために、遺骨の鼻か口元に貴重な真珠をそっとおいて、死者の魂の象徴として、また死後の旅の食事の代わりにと添えたに違いない。南島の葬式でも、死者を北枕にして枕元に、茶碗に山盛りにしたご飯を置いていた。島の芋と裸足の時代には、ご飯を出すことがご馳走であり、死者に対する大切な儀礼であった。ご飯の一粒一粒が稲魂であり、死者が黄泉の国への旅をする際の糧として表現されたのではないだろうか。礼文...島の遺跡で真珠は見つかっていないが、貴石が玉で、海や湖や川からの真珠貝が生み出すものを珠と、漢字が導入されてか ら区別して書かれるようになった。支那人にとっては、金銀、珠玉、宝物と言うが、真珠は、金銀についで貴重なものと考えられているようだ。仏典でも、金、銀、瑠璃(るり)、琥珀(こはく)、瑪瑙(めのう)、水晶と共に七宝に数えられている。わが国の「たま」と言う言葉はギョクでもシュでもなく、共通して魂のことに違いない。肉体のことを「し」と言う。今でも豚肉をワーシと言うがそのシである。子供が成長して、智恵がついてくることを、「たまし」が入ると言い、子供の成長は見えない魂が大きくなる体に入ってくることであるが、逆に死は、人間の肉体から魂が出てしまうことになる。鼻と口元におかれた「たま」は、その魂が乗り移るものである。奈良時代の頃から、真珠が魂の乗り移る依代となったのだろうか。ちなみに真珠という漢字が初めて使用されたのは日本書紀だが、「しらたま」と訓ませている。古事記は「斯良多麻」と書く。正倉院の宝物の中に、聖武天皇の礼服の装飾に使われた真珠が大量に残り、また、儀式用の冠などにも真珠が使われている。真珠は魂を表現するものであるから、真珠が地の神を鎮めるためにも使われている。日本書紀には、允恭天皇が淡路島で狩りをしたが、獲物が一匹も獲れなかったので、明石の海の六〇尋の深い海から大鰒を(あわび)海人に獲らせ、その腹を割くと桃の実くらいの真珠があったので、それを島の神に祭ったら、獲物が沢山獲れたという。海に潜った阿波の国の男狭磯(おさし)という海人は人柱のように死んだ。実際、東大寺や興福寺を建立する際に、地の神を鎮める道具、鎮壇具として真珠が使われている。

 沖縄の那覇と豊見城の間を流れる国場川にかかる橋に真玉橋(まだんばし)という橋があり、豊見城側の地名にもなっている。首都首里と沖縄南部とを結ぶ重要な街道は真玉道と呼ばれていた。その街道を横切る川の橋の架け替えの際、人柱を立てたことが伝承として残っている。実際には工事の際に真珠を橋桁に掲げ人柱の代わりにしたものと思われるが、それで、真玉道の橋、つまり真珠の橋の名前がついたのであろう。近世の真玉橋も実に美しい石橋だったことが分かっている。琉球王国を支配した薩摩の鹿児島の甲突(こうつき)川には、アーチの石橋が架かっていたが、(先年の大水害でいくつかが流されてしまったが)この石造りの真玉橋との技術の繋がりが想像される。芥川賞作家の大城立裕氏は、新作組踊「真珠道」を書いている。その筋書はこうだ。 「身分の違いから結婚がゆるされなかった首里の役人「真刈」と真珠村の娘「コマツ」。年を経て、真刈が公務により、難工事を極めていた建設のため、真珠村にやってきた。巫女となっていたコマツは七色の元結いをした女を人柱に立てることを神託として進言。愛する男のため、村の民衆のため、コマツはみずから七色の元結いを締めて人柱となり、身を犠牲にする。」

 「珠襦(しゅじゅ)」といえば、珠をちりばめた短い衣のことであり、玉匣と(ぎょっこう)は珠玉を入れた宝石箱のことで、支那の王朝は副葬品」が墓を暴いて遺骨を野山にばらまき、副葬品を横取りすることが、支那ではまま見られるが、有名な話は、蒋介石が清朝の西太后の墓を暴いてその遺骸と共に埋められていた黒真珠の首飾りを略奪して新妻の宋美齢に贈った話である。因みに、天津で遊興に浸っていた溥儀がこの暴挙を聞いて再び皇帝に復帰することを決意したとの逸話がある。支那の易姓革命とは、墓を暴いて珠玉を略奪することでもあるらしく、辛亥革命以来の盗掘真珠が欧米に出回って支那は一躍真珠の一大産地になった。ボストンのハ ーバード大学燕京研(イェンチン)究所に、西太后が宝貝のネックレスをした油絵が残っているが、耳飾りも髪飾りも黒蝶貝の真珠で、寝室にもぶら下がっていたそうだ。(つづく)

Kuroshio 123

黒潮の力強さを体感した礼文島往還

 礼文島を訪れた。羽田から飛行機で稚内に直行して市内で一泊して、早朝に連絡船に乗り込んだ。宗谷の名前のついた大型フェリーが三隻就航していて、一番の新造船でスタビライザーが装備された船に乗ったが、前日午前中の悪天候とは変わって海は穏やかで、予定の時間通りに香深港に接岸した。隣の利尻島には行った。日本に憧れて捕鯨船に乗り組んで、北米から渡ってきた青年が幕末の長崎で英語教師をした話を利尻で知ったが、礼文に寄ることができずに、黒潮の流れの日本海側北端にある島を抜きにしたことが気がかりだった。今回ようやく重くなった腰を上げて、礼文島行きを決行した。

 フェリーの発着する香深港は島の南にあるが、島の北辺には船泊湾があり、久種湖を標高10メートルの砂丘で仕切っている地形になっているが、その砂丘に船泊遺跡がある。明治時代からここに様々な遺物があることが知られていて、「東京人類学雑誌」に採集品が紹介され、昭和に入って北海道大学の学術調査が行われている。北海道を代表する縄文時代の遺跡である。北海道では、最近でこそ、地球温暖化の影響もあるとされて、稲作が徐々に北上していることが話題になっているが、弥生文化の基板としての稲作が行われた痕跡はない。本州の弥生時代以降も北海道では縄文時代が継続して、その間、北方からのいわゆるオホーツク文化が入り、古墳時代の影響を受けた擦文文化があり、近世からのアイヌ文化に繫がっていく。礼文島には、55ヶ所の遺跡が見つかっており、、旧石器時代1カ所、縄文時代13カ所、続縄文時代15カ所、オホーツク文化期19カ所、擦文時代12カ所、アイヌ文化期7カ所となっている。ひとつの遺跡に複数の時代が重なっているものもある。平成十年に礼文町教育委員会が行った、船泊遺跡の発掘調査に寄る出土品は、1616点(その内訳は、墓抗群出土773点、作業場跡出土14点、包含層出土709点)にも及び、日本列島最北端の大規模な縄文遺跡として学術的な価値が非常に高く、平成25年6月19日に国指定重要文化財に指定された。その出土品は、香深港のフェリーターミナルから徒歩2分の距離にある礼文町郷土資料館に陳列されている。船泊遺跡には、墓抗が24基みつかっており、宝貝や枕貝の装飾品、翡翠や橄欖岩の垂飾、鳥骨菅玉や石菅玉や平玉は、葬時に遺体に装着された状態で出土している。史料館のパンフレットを見てはっとしたのだが、15号墓の遺体の口元に円いものが写っているので、よく見ると、円い貝殻が写っている。23号墓の遺体の花花のあたりには、翡翠か橄欖岩の垂飾がおいてあるのが分かる。死者の口に珠玉を含ませる飯含の古来のしきたりが行われていたに違いない。イモガイや宝貝、そして枕貝は、北海道には勿論生息していないし、翡翠も新潟産のものであることが分かり、更には礼文島の土でつくられた土器などが道南の奥尻島で見つかったことなどを考えると、黒潮にのって交易が広範に行われていたことの証拠が船泊遺跡となっている。

 礼文島の東海岸の真ん中あたりにある集落の内路(アイヌの言葉で、ナイ・オロ、小川のある場所という意味)のの漁港には、ブリが水揚げされていた。地球温暖化の性だろうかと聞いてみたら、確かにその影響もあるかも知れないが、これまでもブリが豊漁になった時代もあったとのことだから、今年は、黒潮の勢いが強いからブリが潮にのって、北の礼文島で海の幸となっていることが実感できた。気候変動は善し悪しの両面で、礼文島では、今年、土砂崩れで死者が出るほどの希有の豪雨があった。厳しい冬の積雪にどうしようかと雪止めの対策を考えるのが常で、大雨が降って川が氾濫して、土砂崩れとなって、家屋を押し流すことは予想できなかったようだ。大量に出土した縄文後期の土器を見ると、焼成するには、燃料となる薪が必要であるが、今の礼文島には森林は殆どなく、船泊遺跡の周辺の山は、草地で覆われた山しかない。しかも冬場の風の強さのせいか、低木しか見当たらない。北海道に広く植わっていたはずの樫の木などは、文明開化と称して伐採され尽くして、英国のウィスキー樽になった気配もあることを、スコットランド独立可否の話題を聞きながら思った。焼尻島にはオンコの原生林が残るが、礼文島には原始の森はない。

 アイヌの伝統の形の小舟が海岸にあるので、漁師にこの舟で稚内まで行けるかと聞いたら、とても今の季節には無理だ、隣の利尻島までだったら可能だとの話だったが、「イタオマチプ」と言う外洋を航行することが可能な、丸木舟の上に波を避けるための板を縄で綴じた「板綴り舟」のアイヌ独特の技術でつくられた船が、明治の中頃まで使われていたことが知られている。香深港近くのホテルで一泊して朝一のフェリーで稚内に戻った。宗谷海峡は、3メートルを越える高波で、風は北西の強風、宗谷海峡が漏斗の様になって風を吸い込んでいるように思えた。時化の中をフェリーは巧みに操船して難なく稚内港に着いた。宗谷海峡を荒波となって抜ける黒潮の力強さを体感する畏敬の旅となった。 (つづく)

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