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Kuroshio 123

黒潮の力強さを体感した礼文島往還

 礼文島を訪れた。羽田から飛行機で稚内に直行して市内で一泊して、早朝に連絡船に乗り込んだ。宗谷の名前のついた大型フェリーが三隻就航していて、一番の新造船でスタビライザーが装備された船に乗ったが、前日午前中の悪天候とは変わって海は穏やかで、予定の時間通りに香深港に接岸した。隣の利尻島には行った。日本に憧れて捕鯨船に乗り組んで、北米から渡ってきた青年が幕末の長崎で英語教師をした話を利尻で知ったが、礼文に寄ることができずに、黒潮の流れの日本海側北端にある島を抜きにしたことが気がかりだった。今回ようやく重くなった腰を上げて、礼文島行きを決行した。

 フェリーの発着する香深港は島の南にあるが、島の北辺には船泊湾があり、久種湖を標高10メートルの砂丘で仕切っている地形になっているが、その砂丘に船泊遺跡がある。明治時代からここに様々な遺物があることが知られていて、「東京人類学雑誌」に採集品が紹介され、昭和に入って北海道大学の学術調査が行われている。北海道を代表する縄文時代の遺跡である。北海道では、最近でこそ、地球温暖化の影響もあるとされて、稲作が徐々に北上していることが話題になっているが、弥生文化の基板としての稲作が行われた痕跡はない。本州の弥生時代以降も北海道では縄文時代が継続して、その間、北方からのいわゆるオホーツク文化が入り、古墳時代の影響を受けた擦文文化があり、近世からのアイヌ文化に繫がっていく。礼文島には、55ヶ所の遺跡が見つかっており、、旧石器時代1カ所、縄文時代13カ所、続縄文時代15カ所、オホーツク文化期19カ所、擦文時代12カ所、アイヌ文化期7カ所となっている。ひとつの遺跡に複数の時代が重なっているものもある。平成十年に礼文町教育委員会が行った、船泊遺跡の発掘調査に寄る出土品は、1616点(その内訳は、墓抗群出土773点、作業場跡出土14点、包含層出土709点)にも及び、日本列島最北端の大規模な縄文遺跡として学術的な価値が非常に高く、平成25年6月19日に国指定重要文化財に指定された。その出土品は、香深港のフェリーターミナルから徒歩2分の距離にある礼文町郷土資料館に陳列されている。船泊遺跡には、墓抗が24基みつかっており、宝貝や枕貝の装飾品、翡翠や橄欖岩の垂飾、鳥骨菅玉や石菅玉や平玉は、葬時に遺体に装着された状態で出土している。史料館のパンフレットを見てはっとしたのだが、15号墓の遺体の口元に円いものが写っているので、よく見ると、円い貝殻が写っている。23号墓の遺体の花花のあたりには、翡翠か橄欖岩の垂飾がおいてあるのが分かる。死者の口に珠玉を含ませる飯含の古来のしきたりが行われていたに違いない。イモガイや宝貝、そして枕貝は、北海道には勿論生息していないし、翡翠も新潟産のものであることが分かり、更には礼文島の土でつくられた土器などが道南の奥尻島で見つかったことなどを考えると、黒潮にのって交易が広範に行われていたことの証拠が船泊遺跡となっている。

 礼文島の東海岸の真ん中あたりにある集落の内路(アイヌの言葉で、ナイ・オロ、小川のある場所という意味)のの漁港には、ブリが水揚げされていた。地球温暖化の性だろうかと聞いてみたら、確かにその影響もあるかも知れないが、これまでもブリが豊漁になった時代もあったとのことだから、今年は、黒潮の勢いが強いからブリが潮にのって、北の礼文島で海の幸となっていることが実感できた。気候変動は善し悪しの両面で、礼文島では、今年、土砂崩れで死者が出るほどの希有の豪雨があった。厳しい冬の積雪にどうしようかと雪止めの対策を考えるのが常で、大雨が降って川が氾濫して、土砂崩れとなって、家屋を押し流すことは予想できなかったようだ。大量に出土した縄文後期の土器を見ると、焼成するには、燃料となる薪が必要であるが、今の礼文島には森林は殆どなく、船泊遺跡の周辺の山は、草地で覆われた山しかない。しかも冬場の風の強さのせいか、低木しか見当たらない。北海道に広く植わっていたはずの樫の木などは、文明開化と称して伐採され尽くして、英国のウィスキー樽になった気配もあることを、スコットランド独立可否の話題を聞きながら思った。焼尻島にはオンコの原生林が残るが、礼文島には原始の森はない。

 アイヌの伝統の形の小舟が海岸にあるので、漁師にこの舟で稚内まで行けるかと聞いたら、とても今の季節には無理だ、隣の利尻島までだったら可能だとの話だったが、「イタオマチプ」と言う外洋を航行することが可能な、丸木舟の上に波を避けるための板を縄で綴じた「板綴り舟」のアイヌ独特の技術でつくられた船が、明治の中頃まで使われていたことが知られている。香深港近くのホテルで一泊して朝一のフェリーで稚内に戻った。宗谷海峡は、3メートルを越える高波で、風は北西の強風、宗谷海峡が漏斗の様になって風を吸い込んでいるように思えた。時化の中をフェリーは巧みに操船して難なく稚内港に着いた。宗谷海峡を荒波となって抜ける黒潮の力強さを体感する畏敬の旅となった。 (つづく)

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