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Kuroshio 124

支那易姓革命と真珠争奪

易姓革命と真珠争奪

 古事記の序文を書いた太安万侶の墓は昭和五四年の一月に発見されたが、木炭で囲われた檜の棺の中に、火葬された遺骨が入っていた。その中に真珠が四個混じっていて、しかもアコヤ貝真珠で、直径三ミリから、五・四ミリまでの丸い希少性が高いものであった。真珠に焼かれた痕はないので、火葬された遺骨に後で添えられたことが分かった。現在、橿原考古学研究所附属博物館に展示されている。遺骨の鼻と口元に翡翠の玉と南海の珍しい貝をおいた、礼文島の船泊遺跡の情景と同じである。古事記が編纂された時代には、もう華美にわたる墳墓を建設することが禁止されていたが、家族が古来のしきたりを守るために、遺骨の鼻か口元に貴重な真珠をそっとおいて、死者の魂の象徴として、また死後の旅の食事の代わりにと添えたに違いない。南島の葬式でも、死者を北枕にして枕元に、茶碗に山盛りにしたご飯を置いていた。島の芋と裸足の時代には、ご飯を出すことがご馳走であり、死者に対する大切な儀礼であった。ご飯の一粒一粒が稲魂であり、死者が黄泉の国への旅をする際の糧として表現されたのではないだろうか。礼文...島の遺跡で真珠は見つかっていないが、貴石が玉で、海や湖や川からの真珠貝が生み出すものを珠と、漢字が導入されてか ら区別して書かれるようになった。支那人にとっては、金銀、珠玉、宝物と言うが、真珠は、金銀についで貴重なものと考えられているようだ。仏典でも、金、銀、瑠璃(るり)、琥珀(こはく)、瑪瑙(めのう)、水晶と共に七宝に数えられている。わが国の「たま」と言う言葉はギョクでもシュでもなく、共通して魂のことに違いない。肉体のことを「し」と言う。今でも豚肉をワーシと言うがそのシである。子供が成長して、智恵がついてくることを、「たまし」が入ると言い、子供の成長は見えない魂が大きくなる体に入ってくることであるが、逆に死は、人間の肉体から魂が出てしまうことになる。鼻と口元におかれた「たま」は、その魂が乗り移るものである。奈良時代の頃から、真珠が魂の乗り移る依代となったのだろうか。ちなみに真珠という漢字が初めて使用されたのは日本書紀だが、「しらたま」と訓ませている。古事記は「斯良多麻」と書く。正倉院の宝物の中に、聖武天皇の礼服の装飾に使われた真珠が大量に残り、また、儀式用の冠などにも真珠が使われている。真珠は魂を表現するものであるから、真珠が地の神を鎮めるためにも使われている。日本書紀には、允恭天皇が淡路島で狩りをしたが、獲物が一匹も獲れなかったので、明石の海の六〇尋の深い海から大鰒を(あわび)海人に獲らせ、その腹を割くと桃の実くらいの真珠があったので、それを島の神に祭ったら、獲物が沢山獲れたという。海に潜った阿波の国の男狭磯(おさし)という海人は人柱のように死んだ。実際、東大寺や興福寺を建立する際に、地の神を鎮める道具、鎮壇具として真珠が使われている。

 沖縄の那覇と豊見城の間を流れる国場川にかかる橋に真玉橋(まだんばし)という橋があり、豊見城側の地名にもなっている。首都首里と沖縄南部とを結ぶ重要な街道は真玉道と呼ばれていた。その街道を横切る川の橋の架け替えの際、人柱を立てたことが伝承として残っている。実際には工事の際に真珠を橋桁に掲げ人柱の代わりにしたものと思われるが、それで、真玉道の橋、つまり真珠の橋の名前がついたのであろう。近世の真玉橋も実に美しい石橋だったことが分かっている。琉球王国を支配した薩摩の鹿児島の甲突(こうつき)川には、アーチの石橋が架かっていたが、(先年の大水害でいくつかが流されてしまったが)この石造りの真玉橋との技術の繋がりが想像される。芥川賞作家の大城立裕氏は、新作組踊「真珠道」を書いている。その筋書はこうだ。 「身分の違いから結婚がゆるされなかった首里の役人「真刈」と真珠村の娘「コマツ」。年を経て、真刈が公務により、難工事を極めていた建設のため、真珠村にやってきた。巫女となっていたコマツは七色の元結いをした女を人柱に立てることを神託として進言。愛する男のため、村の民衆のため、コマツはみずから七色の元結いを締めて人柱となり、身を犠牲にする。」

 「珠襦(しゅじゅ)」といえば、珠をちりばめた短い衣のことであり、玉匣と(ぎょっこう)は珠玉を入れた宝石箱のことで、支那の王朝は副葬品」が墓を暴いて遺骨を野山にばらまき、副葬品を横取りすることが、支那ではまま見られるが、有名な話は、蒋介石が清朝の西太后の墓を暴いてその遺骸と共に埋められていた黒真珠の首飾りを略奪して新妻の宋美齢に贈った話である。因みに、天津で遊興に浸っていた溥儀がこの暴挙を聞いて再び皇帝に復帰することを決意したとの逸話がある。支那の易姓革命とは、墓を暴いて珠玉を略奪することでもあるらしく、辛亥革命以来の盗掘真珠が欧米に出回って支那は一躍真珠の一大産地になった。ボストンのハ ーバード大学燕京研(イェンチン)究所に、西太后が宝貝のネックレスをした油絵が残っているが、耳飾りも髪飾りも黒蝶貝の真珠で、寝室にもぶら下がっていたそうだ。(つづく)

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