Kuroshio 126
真珠と大航海時代
橋の欄干にかぶせた、両手を合わせたような形の部分を、擬(ぎ)宝(ぼ)珠(し)と言う。真珠の代用と思う。人柱を立てるまでもなく、祈りが籠もっていることを示して、大洪水にも橋桁が流れないようにとの意味だ。熊本市内の龍田山泰勝寺跡には細川氏初代藤孝とその妻麝香(じゃこう)、二代忠興とその妻玉子(たまこ)の霊廟があるが、玉子は明智光秀三女で、名前は明智珠。キリシタンとして有名であるが、石田三成に追われ自害した終焉の地が大坂の玉造であったのも、真珠との縁を伺わせる。辞世の歌として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が伝わっているが、人柱の代わりとなった擬宝珠のように、戦国の世を生きた女の中でも、とりわけ壮絶かつ気丈な人生であった。
さて、フランシスコ・ザビエルが、真珠を求めて日本に来航したとの説を知り、いよいよ想像力を掻き立てられている。ザビエルはイエズス会の創設者の一人として、インド西海岸のゴア近くに赴いたが、真珠産地の労働者を改宗させたことが一大功績となった。アラビア海の奥にも真珠の大生産地があったが、そこはイスラムの地であるから、東方の真珠の生産の地を探して、地域住民の改宗の為に布教していくことを目的としたに違いない。フランシスコ・ザビエルが、一五四九年、薩摩の鹿児島に最初に上陸した理由の糸口が理解できるように思うが、錦江湾の周辺に真珠の大生産地があったことは先号に書いた。ゴアの真珠採取の労働の劣悪さについては、色々な記録が残されているが、木を掘って溝を作り、そこに水をためて、真珠貝をほおりこんで腐らせる。蛆が湧いて、貝肉を食べ尽くしたところでそれを洗い流して、残った貝殻の中から真珠を採取するという方法である。腐臭にまみれた劣悪至極な環境であることが想像され、その労働に従事する人々が、解放の神学のような基督教の魅力に容易に引き込まれたことは想像するに難くない。ザビエルは、真珠の労働者の精神的な救済を布教を目的として来日した可能性があるが、そこはまたインドのゴアの状況とは異なる状況にあったこともまた疑いがない。大日本では山と海の人々の区別があったことは事実であろうが、そもそも、隼人が海の民であって、神武東征以来の朝廷の守り人の役割を担っていたから、インドの真珠労働者のような劣悪な待遇を受ける可能性は低かった。黒潮の民である隼人は勇猛果敢で、薩摩の中でも、反乱を相次いで起こしたことがあるほどだから、ゴアの真珠労働者のように新たな信仰を求めて、彼岸に希望を寄せるような鬱屈して忍従するような屈辱を潔しとする人々ではなかった。ザビエルはトーレス神父に後を托して二年後には離日しているが、トーレスが西彼杵(にしそのぎ)半島の横瀬浦に本拠を置いたのも興味深い。イエズス会は肥前風土記にも書かれた、真珠の産地を拠点としたのである。後に禁教令が出されてから、隠れキリシタンとして信仰を維持したのは、むしろ長崎の五島の島々などに住む改宗者であって、真珠の産地との関係があるとの兆しはない。日本はすでにヨーロッパと比較しても高度の文明水準にあり、その点で、ザビエルの前時代の大航海時代に中南米を席巻蹂躙したような征服ができる要素はもともとなかったのであり、布教の対象となる人間の悲惨が、インドや中南米のようにすぐには見当たらなかった。日本の為政者はヨーロッパの実力の背後に、精神ならぬ鉄砲という兵器があることを見ぬいて直ちに火器の模造に着手した。また、琉球王国を含め種子島など「道の島」の連なりを海外情報吸収の先端地とすべく統治を強化している。
コロンブスは、ジパングに辿り着く前に、第三回目の大西洋横断の航海でようやく真珠を手に入れたとされる。真珠の世界的な大生産地がベネズエラの海岸に見つかった。人間狩りがあり、原住民は奴隷にされ強制的に海に潜らされて真珠貝が採取された。奴隷一人の値段は真珠二個だった。真珠採取は原住民を絶滅させたのである。スペイン人がパナマ地峡を越えて、太平洋を「発見」したのが一五一三年であるが、パナマは以来パナマ黒蝶貝の大粒真珠の生産地として、アラビア海と紅海に加わることになる。スペイン無敵艦隊(アルマダ)を撃破した英国のエリザベス一世の肖像画は、六連の大型真珠の首飾り(ネックレス)をつけた絵である。
先週、アリゾナ州に観光に行った。乾燥地のセドナの峡谷に残された、原住民の洞窟居住地跡を訪ねてみた。貝殻細工が残り、素材は八〇〇キロ離れたメキシコ湾から運ばれてきたという鰒の貝殻を加工したものだった。北米原住民は当時まだ石器を使うような文明の水準にあったから、ヨーロッパからの新参者によっていとも容易に土地を奪われ、略奪され、そして支配されていった。今では政府指定保留地(リザーべーション)と呼ぶ自治権のある保護区に押し込められ居住している。最近は石油などが発見されてカジノを経営したりする部族もあるが、とても豊饒の地とは思えない。伝統工芸の製造も失われたらしく、安物の支那製紛い物を「インディアン土産」と称して露天で売っていたが、買う気もしなかった。 (つづく)
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