構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

2015年4月

Professsor Reichauer and Prime Minister's visit to Bosotn

安倍総理がボストンに立ち寄られたが、ケネディ駐日大使の地元であるばかりでなく、ライシャワー先生の居られた土地でもある。ライシャワー博士について、数年前に書いておいた拙文である。時間が経ったが、それほど修正する必要が無いので、読者諸賢のご参考とご一読を賜るべくフェイスブックに掲載することにしました。長文になりますので、スマホなどで読まれる方は御注意下さい。是非コメントなり読後感を書き込んでいただきたくお願いします。

以下拙文。

日米関係はもとより、世界の政治情勢が激しく動いている。米国では、すでに中間選挙を目指して、政争が激しくなっている。オバマ大統領は、初の黒人大統領としてさっそうと登場したが、その弁舌のさわやかさと反比例するかのように、国内政治においては、激しい攻撃を受けている。国民の皆医療保険を導入しようとして、以前にクリントン民主党が失敗した制度を強行して議会を突破したが、ぎりぎりの骨抜きと言われる妥協を強いられながらの法案成立であった。共和党は、野党となったが、勢いづいているし、一面では内戦状態と言われるような対立もある。オバマ民主党は、外交政策に置いても、妥協を強いられ、失敗した指導者のイメージが深まっている。中間選挙では、民主党は議席を減らすことは間違いない。米国に中間選挙は、アメリカの政策の方向性を占う巨大な実験場になることは間違いない。目が離せない。
ところで、日本では政権交代があり、安全保障政策をめぐって鳩山政権が対等の日米関係を打ち出して、特に、普天間海兵隊基地の移設問題をめぐって日米関係が動揺した。結局は鳩山首相は内閣を投げ出すという、前代未聞の決着をして、後継の菅直人内閣は、米国の圧力と主張を丸呑みするという、先祖返りのような決着を見ているが、冷戦後の日米関係の再調整を行う過程で払われた犠牲であったと考えられる。事実は米国は、経済的には、激しく疲弊しているのが実態であり、その中で、基地の現状維持を図ろうとする勢力が、強圧的に沖縄の基地の現状を維持しようとしたものであり、実際には、日本の国内では反米の気運すら高めることになった。
アジアにおいて、日本以外に米国の戦略的な同盟国があるのだろうか、米国の政策を支持できるのは、日本以外に無いのではないかと考えるのが常識であるが、皮肉なことに、オバマ民主党政権の国務省は中国シンパ一色である。日本を理解する陣容が決定的に欠けているが、米国はそろそろと、中国の台頭に警戒心を感じ始めている。日本の相対的な重要性は高まっているのが現実の力関係であるが、表面的には、日米関係が軽んじられているのも、冷厳な現実である。普天間基地をめぐる安全保障の問題は、東京とワシントンとをつなぐ関係を再構成する良い機会とすべきである。アジアのパワーバランスは急速に変化しており、この問題を日本独自の将来戦略を再考することに活用することだ。企業経営においても、米国市場に適切に対応するためにも、日米関係の良好で安定的な関係に貢献することが大切である。
 
上述したように、日米関係に揺らぎがあり、ワシントンが異常に北京に熱を上げるという状況が続いているが、一方では、長い日米関係を鳥瞰しながら、日本を「再発見」しようとする動きもある。ジョージ・パッカード氏が執筆した、エドウィン・ライシャワー駐日大使の評伝本がその典型である。沖縄返還をめぐり、基地の密約問題などがいよいよ歴史になる時代となっているが、米国側で出版された、優れた歴史の検証本である。

著者のパッカード氏は、ライシャワー大使の特別補佐官を務めた経歴がある。その後、ジャーナリストの仕事を経て、79年からジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究大学院の学院長を務め、ライシャワー東アジア研究センターを開設している。ちなみに、プリンストン大学の出身で、東京大学の留学経験があり、59年にフレッチャー法律外交大学院を修了しており、63年には、同大学院から博士号を取得している。

講談社から、「ライシャワーの昭和史」と言うタイトルで、まず日本語版が出版され、英文版がコロンビア大学から出版され、「Edwin O. Reischauer and the American Discovery of Japan」となっている。 

執筆を開始した頃に、パッカード氏に取材して書かれた、産経新聞の古森記者の記事が残っている。
「【あめりかノート】古森義久 異質論正すライシャワー伝記
2008年09月27日 産経新聞 東京朝刊 1面
 日本についての心強い見解を米側の識者から久しぶりに聞いた。
 「日本は当然ながら民主主義の価値観をアメリカと固く共有する頼りになる同盟国であり、米側はいまもきわめて重視しています」 日米関係で長年、活躍してきたジョージ・パッカード氏の言葉だった。同氏は元駐日大使エドウィン・ライシャワー氏門下の古い日本研究者で、ジョンズホプキンス国際問題研究大学院(SAIS)や国際大学の学長を務め、いまは米日財団の理事長である。
 パッカード氏に昼食に招かれ、久しぶりに会うと、ライシャワー氏の伝記の執筆のために、私がかかわった「ライシャワー核持ち込み発言」について尋ねたいとのことだった。古い話ではあるが、1981年5月、毎日新聞記者だった私はハーバード大学を辞めたばかりのライシャワー氏にインタビューした。日米安保関係についてのその会見で同氏は日本の非核三原則の虚構を指摘する形で、米国の海軍艦艇は長年、核兵器を搭載したまま日本の領海や港に入ってきているのだと語った。この発言は日米両国政府の公式の主張にも反するとあって、大きな波紋を呼んだ。
 60年代にライシャワー駐日大使の特別補佐官を2年間、務めたパッカード氏は、私のインタビューの当日にボストン郊外のライシャワー宅にたまたま滞在していて、その後の「核持ち込み」をめぐる長い騒ぎでもライシャワー氏を支援した。
 パッカード氏は同じライシャワー氏門下で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者のエズラ・ボーゲル氏らとともに、当初は私が寛容なライシャワー氏をずる賢く誘導して本来、語ってはならないことをうまく語らせたと思っている気配があった。
 だがその後にライシャワー氏自身が「古森記者の取材も報道も正確だった」と述べたため、周辺の私へのとげとげしい視線も和らいだ。
 パッカード氏はそんな経緯を改めて問いながら、自著が「月の裏側=エドウィン・ライシャワーとアメリカによる日本の発見」という題になることを教えてくれた。 「単なる伝記ではなく、ライシャワー氏の正当性を示すための強い主張をも打ち出すつもりです」
 パッカード氏は意味ありげな笑いを浮かべながらこんな言葉をも口にしたので、どんな主張なのかと尋ねると「ライシャワー氏の日本論を否定し、ののしった修正主義者たちへの反論です」という。修正主義者とは日本異質論者とも呼ばれ、80年代から90年代にかけて、「日本は資本主義や民主主義とは本来、異質の官民一体の体制で世界の経済制覇を意図している」と主張した米欧の論客たちである。

 米国の有力雑誌編集長のジェームズ・ファロウズ氏やオランダのジャーナリストのK・V・ウォルフレン氏ら4人がとくに有名な日本異質論者だった。 彼らは日本が基本的には米国と同質、均質だと説くライシャワー氏を辛辣(しんらつ)にたたき、「日本に買収された」とか「米国帝国主義の手先だ」と非難していたという。 しかし現実には日本は民主主義と市場経済の道を歩み、米国のよき同盟相手ともなり、なおかつバブル経済は破綻(はたん)した。対テロ闘争などの安全保障面でも、米国の日本への依存や期待は大きい。だからライシャワー氏の年来の日本論はその正しさを証し、その伝記は期せずして日本異質論を改めて論破することになるとパッカード氏は熱っぽく語るのだった。(ワシントン駐在編集特別委員)

ライシャワー博士は、明治43年(1910年)10月15日に、港区芝白金の明治学院内の宣教師住宅で生まれている。父親のオーガスト・カール・ライシャワーは、東京女子大学の創立に関わった長老派教会の宣教師であり、次男である。ライシャワーの姓は、オーストリアのザルツブルグ近郊にある家系である。なお、生家は東村山市にある明治学院東村山高等学校に敷地内に移築されている。当時築地にあったアメリカンスクールに通ったが、日本生まれであるから、日本生まれであったことから「ボーン・イン・ジャパン(BIJ)」と呼ばれ、後に自らのことを「たまたま日本に生まれたアメリカ人」であると語っている。五歳の時に、初めてアメリカに戻っているが、むしろ日本人になったような観察眼で、「異国」を観察している。後のライシャワーも、日本の民族主義に共感するところ大で、西欧の帝国が不正をはたらき、アジアを見下していることに反感を感じたと吐露している。
パッカード氏の伝記では、子供の頃に、両親から受けた教育はもとより、女中さんから受けた影響が強いとしていることは興味深い。日本人の伝統的な価値である、名誉、正直、意思力、忠誠心などが、子供心にすり込まれたとある。初恋の人は日本人であったとも回顧している。
当時の軽井沢でのテニス仲間に、赤狩りで共産主義者との追求を受けて、エジプト大使でありながら自殺したカナダ人外交官のハーバート・ノーマンがいた。ハーバート・ノーマンも日本を研究する学者であったが、日本の歴史に対する見方は異なっていた。ノーマンの系列に、「敗北を抱きしめて」を書いたジョン・ダワーがいる。

ライシャワーの近代化論は、決して西欧化を主張するものではなかったし、60年代にもし日本が社会主義化していれば、ポーランドのようになっていた可能性があると指摘している。ダワーなどは、左翼の理論で毛沢東の革命論を支持したが、ライシャワーは、徳川時代の後期からすでに、近代化の歩みを始めたと指摘して、ペリー提督の率いる黒船は、日本の危機意識を高めたに過ぎないと指摘している。一方で、ノーマンは、マルクス主義者特有の見方で、徳川時代は暗黒の時代であったと定義づけている。ライシャワーにしてみれば、明治維新は、近代化を果たした唯一の非西欧の国であり、ノーマンの見方では、未完の革命にすぎない。アメリカは日本占領を開始したが、どちらの見解を採用するかが重大問題となった。日本の占領政策に、ライシャワーの考えが生かされていることには驚嘆するばかりである。ライシャワーは、日本の常民に信頼をおいていると主張していた。関東大震災を軽井沢で経験している。

1927年に帰国子女として、オバーリン大学に入学している。16歳までに、アメリカに渡ったのは三回しかなかったから、オハイオ州の地方の大学であるから、アメリカになじむためには格好の場所であった。オバーリンを卒業して、ハーバード大学大学院に入学する。1981年4月22日のハーバード大学での最終講義では「私がここに始めて来たとき、東アジア研究に興味を持っていた大学院生は二人しかいなかった。私と兄だ」と往時を回顧している。ちなみに日本に桜美林大学があるが、明らかに、オバーリン大学をもじってつけられた大学名である。東京女子大学との関係で、新渡戸稲造との接点もある。新渡戸稲造は、ウィルソンが提唱した国際連盟の事務次長であったが、要するに、日本では、アメリカンスクールにいた姓もあるのか、一般大衆の日本人とのつきあいはほとんどなかったというが、反面、前田多聞家との家族ぐるみのつきあいも見られる。アメリカ本国に帰国させた息子二人のために仕送りをする両親は、毎週手紙を書いて出すようにと言いつけている。本国とは言え、二人の子供を、アメリカで学問をさせるのは相当の出費であったことが想像される。両親が存命中は絶え間なく、手紙の往来があり、ライシャワーの生涯の習慣となっている。

ライシャワーは、親元を離れてから、教会に通った形跡は無い。自分は、民主主義の宣教師だったと、韜晦の発言もしている。

日本では、短い大正デモクラシーの時代が終わり、田中義一内閣の時に、張作霖事件が発生した。30年には、浜口雄幸の暗殺があった。関東軍による満州事変があり、戦争の道を歩み始める。ニューヨークの株式市場の暴落に始まる大恐慌の時代でもある。ヨーロッパではナチスが台頭する。33年には、無力な国際連盟を脱退する。アメリカはついぞ加盟することは無かった。

オバーリン時代のアメリカでの存在感は、月の裏側にあるようなものであったとライシャワーは回顧している。
ハーバード大学は、ライシャワーの第三志望であった。第一は、ローズ奨学生になることであった。クリントン前大統領がローズ奨学金を貰ってイギリス留学をしたことは有名であるが、オックスフォード大学を志望していた。第二は、スイスの国際連盟で実習することであった。第一は、年齢が若すぎるとされ、第二は、大恐慌でそうした実習自体が無くなった。燕京研究所からの奨学金を受けている。中国語は、ボストンのハーバード大学で習得を始めている。

ハーバード大学燕京研究所の数少ない日本学者であった、セルゲイ・エリセーエフから、日本語の教師となるよう依頼されて、パリの国立現代東洋語学校に留学する。パリでは、前田陽一教授との交流があった。オランダ、オーストリア、ドイツを旅行して、35年には日本に移り、東京帝国大学文学部の初の外国人特別研究生となっている。ヨーロッパ滞在中には祖父の故地であるオーストリアのシャルテンという町を訪ねて、祖父の誕生の証明書と洗礼の証明書を見つけている。

ライシャワーは、日本やアジアに閉じこもることなく、常に、ヨーロッパと比較的する視点を維持したことは、ヨーロッパの経験が生かされたと考えられる。同年七月に、オバーリン大学の後輩で、パリ大学の学生であった、アドリエン・ダントンと東京で結婚している。アドリエン夫人は、両親が北京の精華大学教師をしていたから、六歳から16歳まで北京にいたこともあり、流麗な中国語を話すことが出来た。京都帝国大学の特別研究生の時に、円仁の入唐記の翻訳を手がけている。
円仁の入唐記の翻訳には、仏教の教学、唐の行政制度、朝鮮の歴史、東アジアの国際関係、神道の神話、シナの歴史地理学、当時の航海技術、等々広範囲にわたるものであり、なんと、出版されたのは、1955年になってからである。1963年の四月には、比叡山の延暦寺を訪ねて、華を手向けるだけではなく、入唐記の翻訳本を一冊献呈している。翌年の3月には、栃木県の円仁の生誕の地をも訪問している。

円仁、自覚大師の旅行記を翻訳することで、三つのこと学んだとしているが、その第一は、円仁の中国観察は、マルコポーロを遙かにしのぐものであるとしている。第二は、日本人が中国の文物を、日本の根幹を失うことなく移入していくやり方である。西欧の勢力との対峙の中で、日本の国体を失うことなく対応することについて関心をよせている。第三は、日本と戦争をし、朝鮮戦争があったが、米国が日本、中国、朝鮮について何も知らないことがわかり、アメリカ人を教育する使命感を感じた。最後が、円仁という個人が歴史を変えるという事実である。マルクス主義とは大きく異なる視点であって、決定論ではない。ライシャワー博士の還暦記念に出版されたのが、「日本史における人物伝」であったも、偶然ではない。
1938年には、ソウルに滞在している。朝鮮語をローマ字表記するための方式を、同僚の学者とともに開発している。日中戦争が始まる中で、北京の燕京大学で研究活動を介している。実兄のプリンストン大学教授で将来を嘱望されていた、ロバート・ライシャワー博士が国民党軍の飛行機の誤爆に巻き込まれて死亡した。

38年に、ボストンに戻り、39年には、入唐求法礼行記の研究で博士号を授与された。国務省の極東課デモ働き、日本との開戦後は、陸軍の情報信号部隊の依頼で、翻訳と暗号解読のために学校の設立を行う。陸軍の少佐として入隊している。
1930年代に至っても、アメリカには情報機関が無かったことは特筆してもいい。雑誌タイムを発行しているルース家は一貫して、中国の蒋介石政権の味方をして、日本の批判と中傷を一方的に続けたマスコミであった。
兄のロバート・ライシャワーが、ハーパーズ誌に寄稿した論文も興味深い。タイムと真っ向から相対立する内容で、敗戦後の日本の占領政策にも影響を与えた可能性すらある。ところが、タイム誌の論陣は、日本に石油を売るな、くず鉄などを禁輸すべきだ、アメリカの輸出が日本の軍事力を強化しているという主張で、39年には、通商条約の停止を表明して、日本は、三国同盟の締結、北インドシナへの進駐に踏み切る。天皇陛下は、スターリンでもないし、ピヨトル大帝でもなく、クロムウエルでもないことははっきりしていたし、独裁者ではなく、天皇の名前に依って動かされているとして、ライシャワーは、当然のことながら日米の開戦回避に期待を寄せていた。当時の国務省の極東課は、反日の人々でしめられていたが、現代のオバマ民主党政権下での様相と似ていることには慄然とする。

ライシャワー氏は、短い覚え書きを残したとされるが、20世紀の拡大する日本を、米欧が十九世紀型の拡張帝国主義を維持したままでどうして抑えられようかと書いている。アメリカがフィリピンを、イギリスが香港を、マレーを、オランダが、インドネシアを植民地にしたままで、日本の海外進出をやめろと言うのは論理に合わないとの主張である。ライシャワーの伝記で、初めて明らかににされた事実であろう。

45年11月に中佐として除隊。国務省の外交諮問委員会の極東小委員会の委員となり、天皇制の将来に対する政策や、朝鮮半島に対する政策立案など担当している。グルー大使を始め、知日派の外交官は、ほとんど定年を迎えており、その中では、希有の知日の学者であった。千島列島や、琉球諸島の返還問題についても草案の起案に参加している。朝鮮半島をどうするかについての確たる案が無かったことも指摘している。

1946年には、日本:過去と現在、という小冊子を出版している。日本や東アジアについてあまりにも無知なアメリカ人を教育する為に出版されたという。1948年には、人文科学顧問団の一員として占領下の日本を訪問して、ダグラス・マッカーサーにも会見している。

「歴史は、何がなぜ起きたかを口述する物語である。マルクス主義のように必然的に物事が起きるわけではない。抽象化された理論ではなく、ある枠組みがあるわけでもなく、経験的なものである。」と言う確信に満ちていた。ライシャワーは、一回も共和党に投票したことがないと発言しているが、赤狩り旋風に置いても目立って反抗することはなかったが、追従した事実も見当たらない。

1950年、40歳の年に、ハーバード大学の教授に就任している。55年には極東学会の会長に就任して、ハーバード大学の燕京研究所の所長に就任したが、セルゲイ・エリセーエフの後継者としてのものである。ジョン・ロックフェラー三世と厚誼を深めている。毎日新聞に連載記事を寄稿して原稿料12万円の支払いを受けたときに、経済回復をしていない国から多額の原稿料を貰うことを潔しとせず、4分の三を、東京女子大学に、残りを母親が創立した東京聾学校に寄付するようにとしている。1955年にアドリエン夫人が3人の子供を残し急逝した ペースメーカーなどは、まだ開発されていなかった。子供の頃に北京でジフテリアにかかり、その後遺症があったとされる。

ライシャワーの対中国観も興味深い。共産中国の承認も早期に行われるべきと進言している。米国は、対日部分講和を考えたことがあるが、これにライシャワーは反対している。国務長官から意見を求められている。サンフランシスコの講和条約には、ソ連も中華民国も反対したが、部分講和ではない。

1953年頃からダレス国務長官の下での外交政策の批判を行うようになる。アイゼンハワー政権の時である。55年には、アジア政策のなさを批判する本を出版している。ディーン・ラスクとライシャワーの対立は激しい。朝鮮に対する無知は、無関心と合い比例していると書いているが、当時の極東担当の国務次官補がラスクであった。フランスが、ヴィエトミンにディエンビエンフーの戦闘で乾杯したのがこの頃である。

1955年6月に、三人の子供を連れて東京に帰って?いる。松方ハルに有楽町の外国特派員教会で出会い、翌年再婚する。

ジェイ・ロックフェラー氏は、ライシャワー教授の指導に従って、三年間、東京三鷹の国際基督教大学に留学している。

以下、ネットのウィキペディアに記載された部分を引用する。参考まで。
「「日米間に大きな亀裂を残した安保闘争直後の1960年夏に、ハーバード大学燕京研究所所長として日本を訪れたライシャワーは、「損なわれた対話(Broken Dialogue)」と題した論文を外交専門雑誌『フォーリン・アフェアーズ』」1960年10月号に発表し、「アメリカをはじめとする西側諸国は、日本の政府(閣僚や与党議員)や財界の指導者層だけでなく、野党や右翼、左翼活動家、知識人とも異端視することなく対話を重ね、日本の主流から外れた人々の実態や抱える不満を把握するべきである」と主張した。
この論文が当時就任して間もないケネディ政権の国務次官であるボールズの補佐官のジェームス・C・トムソン・ジュニアの目にとまり、駐日大使への就任要請につながったと言われる。」
出生や家族といった側面だけでなく、ライシャワーは上記の論文で主張した日本の多くの層との対話を実行に移し、全国に妻とともに積極的に出向き、市民との対話を演出したほか、昭和天皇などの皇族や、池田勇人や佐藤栄作などの現職の首相や、吉田茂や岸信介などの元首相などの与党リーダー層のみならず、社会党などの左派野党議員や石坂泰三などの経済人、池田大作などの宗教関係者や左派を含む労働組合関係者とも積極的に会談を行うなど、アメリカ本国のケネディ政権と協調して日米政府間の対等をアピールすることで、「日米パートナーシップ」、「ケネディ=ライシャワー路線」と称される日米蜜月時代を演出しようとした。
また、冷戦下においてこれまで大使館とは微妙な関係を保っていた在日アメリカ軍との関係改善にも臨み、在日アメリカ軍司令官や太平洋軍司令官、そして沖縄の琉球列島高等弁務官などとも緊密な関係を取り続けた。さらに、日本を訪問したアヴェレル・ハリマンやリチャード・ニクソン、ロバート・ケネディなどの政界関係者と日本の政財界人との間をつなぐだけでなく、彼らに対して同盟国の日本との関係の重要性を理解させるように努めた。
なお、ライシャワーは駐日大使在任中にほぼすべての都道府県を訪問した他、妻のハルも女性団体やその他各種団体などとの会合に積極的に出席するなど、市民との接触も積極的に行い、その活動は数多くのマスコミで大きく報道された。
しかし、1963年11月のケネディの暗殺後にリンドン・B・ジョンソン政権に代わった頃以降には、皮肉にも自らを抜擢したケネディ政権が始めたアメリカのベトナム戦争政策を起因とする日本人の反米感情の高まりへの対処に苦慮することとなる。
1964年3月にアメリカ大使館門前で統合失調症患者にナイフで大腿を刺され重傷を負った。この時に輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し多くの日本人から賞賛を浴びたが、この輸血が元で肝炎に罹る[4] 。その後、これがきっかけになり売血問題がクローズアップされ、その後日本において輸血用血液は献血により調達されることになる。この事件は「ライシャワー事件」と呼ばれ、精神衛生法改正や輸血用血液の売血廃止など、日本の医療制度に大きな影響を与えた。
その後3ヶ月の入院を経て回復し退院し(その後ハワイ州ホノルルの病院に再入院した)一時は辞任を考えたものの、「今退任し帰国すれば日本人は事件の責任を感じてしまうだろう」と考え留任することを決め、その後も駐日大使として活躍した。辞任 [編集]
しかし、ベトナム戦争が本格化し日本人の対米感情が悪化しつつあった上に、ベトナム情勢に対する本国の政策に違和感を覚え、1966年7月にワシントンD.C.に帰国した際にジョンソン大統領に辞任の意向を伝えた。ジョンソン大統領からは極東問題担当の国務次官への就任を依頼されたが拒否し、同年7月25日に辞任を発表、8月19日に多くの日本人に惜しまれつつも東京国際空港から帰国した。
大使を辞任して帰国後、ハーバード大学教授に帰任、南ベトナムへの干渉や中華人民共和国の承認、沖縄返還、対韓国政策の再考などに関し精力的に発言[2]し、さらに日本を始めとする極東問題の専門家として歴代政権やヘンリー・キッシンジャー、教え子のズビグネフ・ブレジンスキーなどのアメリカの外交関係者、さらに中曽根康弘首相や韓国の野党指導者の金大中(その後大統領)に対しても様々な助言を行った。また、佐藤栄作のノーベル平和賞受賞に際しては、佐藤の受賞の推薦文を記述した。
なお、1973年にハーバード大学日本研究所所長に就任した他、同大学の東アジア研究評議会理事、OECD理事やアジア基金理事など数多くの役職を務め、日本及びアジア研究者として日米間を緊密に往復しつつ活躍した。
1964年には上記の襲撃事件により肝炎に罹患、大使退任後も度々の発症に悩まされていた上、1975年2月には脳卒中に見舞われたほか、1983年には脳内出血にも見舞われた。しかしその後回復を見せ、1980年10月に定年で退職するまでハーバード大学日本研究所などで活躍したほか、その後も多数の著書を出し続けた。なお、ハーバード大学日本研究所は、ライシャワー退職後の1985年にライシャワーの業績をたたえて「ハーバード大学ライシャワー日本研究所(RIJS)」と改称された。1988年には、公式訪米中の皇太子明仁親王・同妃美智子がライシャワー邸に滞在した。1990年には、襲撃事件とその後の輸血以降ライシャワーの持病となった肝炎が悪化し、延命治療を拒否し79年の生涯に自らの意思で幕を下ろした。遺灰は、遺言により太平洋に撒かれた。
戦後に西ドイツで書かれた『千の太陽より明るく』という題名の本の中に「ライシャワーが第二次世界大戦中にアメリカ陸軍で対日情報戦の専門家として働いていた頃、ある時アメリカ陸軍航空隊による日本の主要都市の爆撃リストを受け取る。そしてその中に、数々の名所、旧跡を持つ古都である(と同時に西日本の交通の要衝でもある)京都の名前があり、そのあまりの無知、無軌道さに愕然としたという。ショックのあまりに自分の上司のオフィスに駆け込み大粒の涙をこぼしながら上司に京都を爆撃リストから外す事を必死に頼み込んだという。ライシャワーの必死の説得に心を打たれた上司は、陸軍長官ヘンリー・スティムソンに事情を説明する。そのスティムソンもまた、自分のハネムーンで京都を訪れて以来日本に感銘を受け、必死に京都をリストから除外する事に尽力。日本の文化遺産、古都である京都はアメリカ軍機による爆撃を免れ今日までその文化遺産を伝えている」という逸話がある。
ライシャワーはこの逸話の存在を自伝『ライシャワー自伝』内で完全に否定している[5]上に、吉田守男によれば、京都が空襲を受けなかったのはそのような理由ではなく、京都は広島・長崎に次ぐ第三の原爆投下予定地の一つであったことが明らかにされている[6]。京都は当時、日本陸軍第16師団の衛戍地である上、大阪や神戸などの大都市に抜ける交通の要所として、燃料や石炭、鉄鉱石、石灰石などを運ぶ非常に重要な役割を果たしており、しかも三菱や島津製作所の軍需工場などが多数存在するという「軍事都市」としての位置づけもあり、当然のごとく戦略目標であった。また京都府には日本に数少ないニッケル鉱山である大江山やタングステンの鉱山を多数を抱えていた。
したがって、京都が戦災を免れたのは多分に偶然と結果の産物であるというのが現在主流となっており、「京都は古都だから無傷だったのではなく、原爆投下対象都市だったために原爆の破壊力を測定するために無傷にしておくように命令が出ていた」という意見や、ライシャワーが上記の自伝に記したように「1920年代に京都を2度訪問した当時のヘンリー・L・スチムソン陸軍長官の功労である」という意見などがある。
1981年に毎日新聞の古森義久記者の取材に対して「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」と発言したことを受け、「非核三原則」違反を元アメリカ大使が認めたとして日本国内で騒動になった。「核兵器搭載艦船は日本寄港の際にわざわざ兵器を降ろしたりしない」の「ラロック証言」と並び有名な「ライシャワー発言」である。
なお、後の1999年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。
この様に当時のアメリカ大使が日本への核持ち込みを認め、その後大学教授が当時の外相とアメリカ大使の間で核持ち込みについて了承を行ったことを証明したのにもかかわらず、2009年8月に衆議院選挙に勝利して与党となった民主党の鳩山政権の岡田克也外務大臣は、就任後にこれを「日米核持ち込み問題」として問題視し、調査を行い同年11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。日本語の会話能力は高かったにもかかわらず、駐日アメリカ大使として表に出る際には、アメリカの外交官として決して日本語を使わず、必ず通訳の西山千を通じて話していた。ライシャワーに限らず、大使などの公人は外国語を公の場では口にせず通訳を介するのが通常である。『ライシャワー自伝』などの複数の著書の中で、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法について「日本人自身によって制定されたものではなかった」、「アメリカを中心とした連合国によって作られ制定させられた」と書いている。」昭和30年代と40年代は、日本の戦後の黄金時代であった。西暦では、55年から、75年までの二十年間である。64年の10月には、東京オリンピックが開催された。戦後がようやく終わったと確信できるようになった。池田勇人政権は、所得倍増論を唱えた。ケネディ大統領は、弱冠44歳であった。ライシャワーは、大使として五年半の任期を努めるが、ケネディ大統領の暗殺が、分水嶺となった。」以上ウィキペディアからの引用である。ご参考まで。

ライシャワーは、アメリカ人の占領マインドをも戒めた。アメリカ軍は、首都圏の要衝に基地を維持していた。ゴルフ場はもとより、ラジオ局までもっている。今でもほとんど変わってはいないが、目立たないようになったことは事実である。アメリカンクラブについてもからかっている。ウェイターとバーテンダーだけが日本人だけであると指摘している。今もロシア大使館裏にあるが改築中である。こうした、突出した優越的なアメリカ人の行状に対して、長期的には危険であると指摘しているのである。「占領されたことのない日本という名誉を重んじる国に、外国軍隊と基地がいることは、摩擦を起こして、日本人に対して公平に尊敬の念で対応しない限り、同盟がおわりになることになる。」

詳述しないが、沖縄の返還については、明らかに貢献している。キャラウェイ中将という、高等弁務官の独裁についても言及している。エドワード・スマートという、在日米軍の司令官が、ライシャワーの琴線に触れたことにも言及している。

ライシャワーは、日米の「対等な」関係についても日米双方の指導者の説得にかかっている。軍事力が対等でないことは、言うまでもないことであるが、当時の日本は、10%を超える高度成長であり、イギリスの国民総生産を日本が抜いたのであるから、対等と言うことに異議は無かったのであるが、当時の表現としては、思い切った表現である。池田・ケネディ会談の共同コミュニケには、その表現が何度も使われている。

ケネディ大統領の暗殺のニュースは、日本に太平洋を越える実況中継の映像として伝えられた。太平洋をまたいでの初めての衛星中継の映像が送られたその第一号の映像が、ケネディ暗殺の映像であった。東京オリンピックを控えて、日本は技術開発と設備の更新に邁進していたが、62年、通信衛星の照るスター一号によって大西洋のテレビ中継が実現して、63年11月23日、リレー一号によって、日米間の衛星中継が行われたが、その日にケネディ大統領が暗殺され、日本人は衛星中継で、暗殺と言う衝撃的なニュースを知ることになった。

1964年3月24日、ライシャワー大使は、韓国の元軍人で要人である金鐘秘氏との昼食会があり、大使館の門を出たときに刺された。輸血の中に、肝炎のウィルスが紛れ込んでいて、後遺症を伴った。パッカードの伝記では、国務省に公務災害として申請したが却下されたと書かれている。
ライシャワーは、ベトナム戦争に、正面切っての反対をしなかったが、その不服から、大使を辞任する。ハーバード大学の学究生活に戻った。90年に、長女の住むカリフォルニア州で逝去するが、その遺骨は、飛行機から太平洋上に散布されている。

ライシャワー教授の家は、ハーバード大学の隣町のベルモントにあったが、それを講談社が購入して、記念館としている。講談社の企業としての見識は相当なものである。講談社が、市場原理主義の批判する本を出して、名誉毀損の訴訟を顧みずに勇気をもっている会社であることも存外、こうしたつながりがあってのことかも知れない。
小泉・竹中政治は、実は、安定的な日米関係を破壊したことに与したのである。

ライシャワー教授の日本研究は、いわゆるリビジョニストから、攻撃と批判を受けた。第一に、日本の民主主義は、都市部の人口増とともに確立するとの見方は当たった。、アメリカのように大量に首切りを行わずに、経営者がに日本的な経営を行うことを支持したし、また、日本の経営者が、米国の経営者のように天文学的な給料を取ることを批判して日本の慣行をむしろ賞賛している。第二に、日本人は平和愛好の国民であると観察したことである。ノーマンや、ダワーの言うような社会革命など日本では、全く不要であった。中国の方が、革命の混乱の傷跡が深く残っている。朝鮮半島は分断されたままである。

日本は、武器を輸出しないでも、経済力を維持している。逆説的に言えば、武器を輸出しないからこそ、世界の信頼を得ているとの見方もあり得る。

80年代と90年代の日本は、日本異質論があり、又、市場原理主義が米国内で支配的な政治的な哲学となったこともあり、日米関係は、いよいよ悪化した気配である。日本の従属を公言して、ライシャワーやケネディの時代の「対等な関係」の表現の陰も形もなくなった。
そうした中で、パッカード氏の、ライシャワーの昭和史の出版は、画期的なものである。勿論、アメリカの見方であるが、ライシャワー氏のように、比較的な視点があり、偏狭にならずに日米の相互の利益を長期的にとらえることが今こそ必要である。

企業経営においても同様である。例えば、取締役クラスで、海外にクリスマスカードを出すとして、どのくらいの友人知人があるだろうか。ビジネスだけの関係ではなくて、家族ぐるみのつきあいとなるとなかなかであるが、そうした関係を会社として追い求めることが必要である。日米関係に置いてライシャワー大使が成功した手法は今でも有効である。
発展する企業は、狭い日本にとどまってはならない。国際場裏に目を開き、世界に活動の場を求めていかなければならないが、そのときにもライシャワー氏のような複眼的な思考で、相互の平等互恵を思考することが原則である。

ライシャワーの昭和史は、企業の経営者にとっても一読するに値する。そして今、市場原理主義の時代が破綻した今こそ、その価値が高まっているように見える。
ジョージ・パッカード氏のライシャワーの伝記の結語として、もしライシャワー教授が生きていたらと仮説の議論を展開している。 
その概要をまとめて見る。「勿論、自分の生まれた国である日本が平和国家となり、経済的にも豊かな国で、民主主義の国で、他のアジアの国の模範となるような国家として発展していることを慶んでいることは間違いないが、日本に置いて能力のある政治指導者がほとんどいないことと、一貫した外交政策の目標がなくなっていることに失望感を示すかも知れない。ライシャワーは、大平正芳首相を、大いに評価したが、大平氏のような政治家が、権力のトップに立つことがないことを残念に思うに違いない。戦後の教育システムや、日本の国民であると同時に世界の市民の一人と考えることの出来る国民をうみだすに違いないとかんがえている。政権交代があったから、日本の民主党にも期待するかも知れない。米国と日本が協力して、世界の課題、問題に対処することを期待するが、米日の関係の現状を見て、なぜ、日本の主張する声がそんなに小さいのか、受け身に走っているのか、疑問を持つかも知れない。ブッシュ大統領が、イラク侵攻をするという大失敗をしたのに、なぜ、小泉首相は、シラク大統領やシュレーダー首相のように、岩メルコとをしなかったのか。国連の議論として持ち込まなかったのかと不安におもうかも知れない。この点でも、ライシャワー博士は、日米の対等な関係を新たに構築することを求めるであろう。基地問題に対しても、大きな変更を求めるだろう。
沖縄から大部分の米軍が撤退して、自衛隊と共用になっていることが期待され、もし、グアムへの基地移転の経費を日本に負担せよとワシントンが要求していることを知ったら、ライシャワー氏は、当惑してしまうだろう。嘉手納基地への統合案を認めて、普天間基地の閉鎖に賛成するだろうとも書いている。

Diamond Weekly、Conflicts of Interests

週刊ダイヤモンドの4月25日号に、郵政民営化に関連する記事が載っている。19ページにある、人事天命というコラムで、英文で、Top Viewと書いて紹介しているので、会社の社長など経営者についてのコラムだろう。紙面は、1ページの上半分を使っている。

大きな見出しで、ゆうちょ銀行とあり、その下に黒字で、トップ兼任で進む前代未聞の上場案 後任選びに透ける融資業務との距離感 とある。

署名入りの記事である。

面倒くさい作業ではあるが、書き写してみるが、ご関心の向きは、正確を期するためにも直接その週刊ダイヤモンドの本誌を講読して参照することを薦める。

「前代未聞の上場スキームにまた”箔”が付いた。持ち株会社である日本郵政の西室泰三社長(79歳。写真、(写真は省略))が、子会社のゆうちょ銀行の社長も4月から兼任する体制になったのだ。日本郵政とゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の3社同時親子上場という、東京証券取引所の歴史上初とされる上場案を描く郵政グループ。その3社中2社のトップに同じ顔が並ぶ異例の重ね塗り状態だ。ゆうちょ銀の井澤吉幸前社長の退任が決定的になって以来、水面下で後任選びが進められてきた。その中には「米澤(友宏・ゆうちょ銀)副社長の昇格案も含まれていた」(大手銀行幹部)というが、調整がつかず断念。結局、井澤氏の退任と同時に、米澤氏は日本郵便が新設した上級副社長職に就任すると発表された。また、郵政関係者はある大手銀行の元首脳にも接触して社長就任を打診したが、色よい返事はもらえなかった。そして、時間切れを迎え、今に至るというわけだ。金融庁上層部からは「ゆうちょが生きる道は、機関投資家として巨額の資産を運用する嚢中(農林中央金庫)モデル」という声が聞かれ、アセットマネジメントの能力に長けた人物にターゲットを絞って、後任選びを続けている。となれば、地方の記入機関が神経をとがらせる融資業務への本格参入の色合いも薄れる可能性があり、(後略)」とある。

 カラス天狗が闇夜で羽音を立てて、歌舞伎の髙時のような場面が想像される。小泉・竹中時政治の残党の天下り人事ががまだ残っていること自体が不思議であるし、運用に失敗したことのある中央金庫をモデルとすべきなどと金融当局が言っているとすれば行政も相当市場原理主義に毒されていかれていることがわかるが、利益相反の禁じ手を使ってデモ世界最大級の国民資産を収奪するシナリオで、簡単に恫喝支配出来るとでも思っているのだろうか。大日本(おほやまと)は神の国であり、また天網恢々疎にして漏らさず、ということを知らないのだろうか。拝金の新自由主義の外国勢力とその手先の跋扈は目に余ることではあるが、きっと天罰が下るに違いない。なかなか的確に”箔”の上塗り、いや重ね塗りを指摘した、「天命」を諭す?記事である。

Kuroshio Culture and Tradition II

黒潮文明の旅をとぼとぼと続けている。67号から後をひとつのリストにしてみた。当方ブログのささやかな人生の探求である。ご一読を賜りたい。時々コメントなどを頂戴出来れば幸いである。90から96までは、タブノキにこだわりすぎたかも知れない。とうとうトルコのアンタルヤのタブノキまでを網羅することになった。いよいよ100号をこえて、南支那海を彷徨するはめになった。107回で与那国島を再訪して、いよいよスンダランドへの旅に出る。筆者は、スンダランドが黒潮の民の故地と考えている。途中、海底の地下資源の話をするのに時間がかかり、本当は南の方向に向かっているまでには至らない。

67 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/kuroshio-67.html

68 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/kuroshio-68.html

69 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/kuroshio-69.html

70 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/kuroshio-70.html

71 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/kuroshio-71.html

72 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/kuroshio-72.html

73 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/kuroshio-73.html

74 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/kuroshio-74.html

75 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/kuroshio-75.html

76 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/kuroshio-76.html

77 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/kuroshio-77.html

78 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/kuroshio-78.html

79 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/kuroshio-79.html

80 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/kuroshio-80.html

81 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/kuroshio-81.html

82 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/kuroshio-82.html

83 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/kuroshio-83.html

84 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/kuroshio-84.html

85 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/kuroshio-85.html

86 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/kuroshio-86.html

87 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/kuroshio-87.html

88 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/kuroshio-88.html

89 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/kuroshio-89.html

90 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/kurosio-90.html

91 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/kuroshio-91.html

92 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/kuroshio-92.html

93 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/kuroshio-93.html

94 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/kuroshio-94.html

95 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/kuroshio-95.html

96 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/kuroshio-96.html

97 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/kuroshio-97.html

98 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/kuroshio-98.html

99 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/kuroshio-99.html

100 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/kuroshio-100.html

101 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/kuroshio-101.html

102 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/kuroshio-102.html

103 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/kuroshio-103.html

104 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/kuroshio-104.html

105 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/kuroshio-105.html

106 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/kuroshio-106.html

107 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/kuroshio-107.html

108 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/kuroshio-108.html

109 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/kuroshio-109.html

110 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/kuroshio-110.html

111 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/kuroshio-111.html

112 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/kuroshio-112.html

113 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/kuroshio-113.html

114 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/kuroshio-114.html

115 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/kuroshio-115.html

116 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/kuroshio-116.html

117 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/kuroshio-117.html

118 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/kuroshio-118.html

119 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/kuroshio-119.html

120 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/kuroshio-120.html

121 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/kuroshio-121.html

122 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/kuroshio-122.html

123 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/kuroshio-123.html

124 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/kuroshio-124.html

125 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/kuroshio-125.html

126 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/kuroshio-126.html

127 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/kuroshio-127.html

128 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/kuroshio-128.html

129 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/kuroshio-129.html

130 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/kuroshio-130.html

131 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/kuroshio-131.html

132 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/kuroshio-132.html

133 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/kuroshio-133.html

134 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/kuroshio-134.html

135 http://tokyonotes.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/kuroshio-135.html

○の中に、数字を書くやり方がまだ判らないので○なしになっている。読者でご存じの方がおられれば,ご教示方お願いしたい

人気ブログランキングへ

ブログランキングへのこだわりはないが、下記のバナーをクリックしていただければ幸いである。

人気ブログランキングへ

Kuroshio 135

遺伝子殲滅文明と遺伝子融合文明

 DNAは「デオキシリボ核酸」の略称である。遺伝子の本体であり、分子は二重らせんの立体構造である。人間のDNAには個性があり、同一である可能性は極めて低いので、人間一人一人を特定することができるのではないかと、急速に研究が進展した。人それぞれに異なる指紋に加えて、DNAを鑑定することが、個人個人を特定する切札となったのだ。人間の細胞はたった一個の受精卵から出発して誕生までに約三兆、成長して約六〇兆にもなるが、細胞一個にDNAは六〇億対があるという。同じ型の別人が現れる確率は、四兆七〇〇〇億人に一人とされているが、鑑定の種類はいくつかあり、しかも、現在の技術ではDNAすべてを調べるわけにいかないから、他人であってもDNAの型が一致することがある。つまり、依然として明確でない部分があり、誤判定になる可能性も否定できない。日本で犯罪捜査に実用化されたのは、一九八五年からである。一九九九年に発生した足利事件はすでにDNA鑑定により有罪が確定していたが、再審請求を受けて再鑑定をしたところ、DNA型不一致との結果が出たために、翌年二〇一〇年には再審で無罪が確定している。飯塚事件でも、再審請求が出されている。いわゆる東電OL殺人事件ではDNA鑑定の有効性が裁判で争われ、一審では反対解釈の余地もあるとして無罪となったが、二審では決定的な証拠であるとして無期懲役の判決が出て最高裁で確定した。ところが、二〇一二年に東京高裁にて再審が開始され、DNA鑑定を決め手として一転無罪判決が下されている。このように、DNA鑑定の盲信が冤罪をつくる原因となる事件も多々発生するので、科学万能主義をとることはできない。また、その鑑定の周辺で起きる間違いのために、誤判定があった事例も報告されている。ヨーロッパでは、研究所で試料を攪拌するための綿棒に、工場の労働者のDNAが付着していたため誤鑑定になった事例や、日本国内でも、鑑定試料の取り違えで誤認逮捕を招いた事例も発生している。また、北朝鮮から拉致被害者の遺骨が返還されたとき、それが他人の遺骨であって偽物であることはDNA鑑定で発覚したのだった。拉致被害者の係累の本人確認を行なうためのDNA鑑定用の試料としての毛髪や汗を、訪朝した有能な外交官が握手等をして密かに採取したことも漏れ聞いている。

 DNAについて縷々述べたのは、文藝春秋の編集者から、平成二七年四月号に掲載された「DNAで日本文化の起源が分かった」と題する記事を薦められたからである。古い人骨に残ったDNAを解析することで日本人の起源に迫ることができる可能性が高まったとする記事である。北陸新幹線の建設中に、富山県の小竹貝塚から六〇〇〇年前の縄文前期の遺物が大量に出土した。その中の九一体の人骨について、ミトコンドリアDNA分析をしてみると、現代日本人が三人に一人の割合でもっている「D4型」がまったくなく、南方系の型と北方系の型とが混在していた。南方系とはいっても、台湾にはない型で(朝鮮半島には日本列島から入った末裔の印として二、三パーセントの人口がある)、日本列島に限定される型であったことが分かった。D4型はaからnまで細かく分類され、例えば、D4bはシベリア先住民に多いなど、まだルーツが解明されているわけではないが、縄文時代にも南方系と北方系の人が混在していたことが判明して、「弥生人が来る前に日本に住んでいたのは、「均一な縄文人」であると想定することには無理があるとしている。縄文人は世界のどの時代の誰とも似ていないところがあり、別の見方をするとアジアの広範な地域の人々に少しずつ似たところがあるが、南北の様々な集団が日本列島で融合したことが想像される。急速に精度が上がってきたDNA解析によれば、縄文人の特徴はその来歴よりはむしろ多様さにあることが分かった。こうした南北の異なる地域、すなわち北方的な垂直的世界観と、南方的な水平的世界観とが混じり合った神話を記録したのが古事記ではないか、などと論じられている。

 ミトコンドリアDNAは母系に遺伝するが、Y染色体は父から息子にのみ遺伝する。Y染色体はD型が日本列島に三割いるが、これは、縄文人の遺伝子がそのまま残っている証拠であり、日本の列島で融合がうまくいった結果であって、大規模な征服と虐殺がなかったことが原因ではないかとしている。征服されると男は殺され、女は奴隷にされて、特にY染色体は途絶えてしまうのが大陸での常であるが、日本ではそれがなかった。縄文と弥生の文化が混じり合い、非常に多様で多元的な文化が引き継がれたのだ。敗者を祀ることで、「祟らない」、「鎮まる」と和解を求めたことは古事記にあるとおりだ。日本人のルーツを遺伝的にみると融合の繰り返しで、新しい者に対する排除を最小限にする仕組みを創って集団を維持し、争わずに共に生きて行こうとする傾向が強い、と四月号の記事は結んでいる。沖縄の故川平朝申(かびらちようしん)先生は常々「島々ではイチャリバチョーデ(来たら兄弟)だ」と言っておられた。  (つづく)

Camphor Tree

隠されたクスノキと楠正成

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/200516.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/2005181.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/2005201.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/200523.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/200526.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/200530.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/200603.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L0/200608.htm

Good-bye Democratic Party

地方統一選挙が山場を越した。国レベルでの与党が、地方選挙では負ける可能性もささやかれたが、そうはならなかった。夕べ、とある会合で、経済の専門家と話しこんだが、やはり、地方選挙でも野党第1党であった民主党の機能がなくなったことがはっきりしたので、野党勢力を担う政党としての使命が終わったのではないかとの見方が披露された。なるほど、今日東京の夕刊紙日刊ゲンダイは、「民主党解党秒読み」との大見出しをつけて報じている。自社さ政権としての村山内閣が成立したときに、野党としての社会党の解体が始まったように、今回の地方での選挙が終わる今月末には、実は、民主党の野党としての役割にも見切りがつけられて、政界再編成が本格的に始まることになる可能性が高まったことを伺わせる。以上、問わず語りの政治談義。ご参考まで。

B-29 and Moral Hazard

アメリカの日本空襲にモラルはあったか(ロナルド・シェイファー著、草思社)を読んでいた。日本の中小都市、5万から10万の人口の都市に1時間にその人口の6倍から8倍にも及ぶ数の焼夷弾を、米国陸軍航空軍のB29編隊は投下した。この航空軍が戦後空軍となった。ロナルド・シェイファー氏は、米国の歴史学者である。日本の一般国民に対して行った攻撃と、道義、倫理の問題を詳論している。勿論、無差別攻撃の首謀者であったカーチス・ルメイ将軍についても詳述している。この本は、米国航空軍の戦法が、南北戦争時代のシャーマン将軍の戦法を採用したと指摘している。ルメイの焼け野原にする戦法は、アメリカの伝統を踏まえての戦法だったから、ルメイに反対したのは少数の人でしかなかったと指摘する。この本を日本語に翻訳した深田民生氏は、日本側の反応もアメリカの多数派の考え方と似ていたとするのは興味深い。清沢冽を次のように引用する。「これ等の空爆を通して、ひとつの顕著な事実は、日本人が都市爆撃につき、決して米国の無差別爆撃をウランでも、憤っても居らぬことである。僕が、「実に怪しからん」と言うと、...「戦争ですから」と言うのだ。戦争だから老幼男女を爆撃しても仕方が無いと考えている」。つまり日本側も竹槍で戦い1億総玉砕を辞せず、宣伝を聞かされて、戦闘員と非戦闘員を区別しない戦いをしていたという。国際法のことも知らなかったのだろう。清沢洌は、竹槍で戦うこと等を愚劣極まりないと思っていたからこそ、無差別爆撃を激しく非難したのである。米国側は、日本の都市を焼き払って当たり前と考えていたが、それに反対する少数の人ですら、肥料工場の爆撃や水田に枯れ葉剤を撒いて、日本人を飢えに追い込むことには賛成していたのだ。

戦後七十年の談話が話題になっている。昨日、とある大学の教授の話を小耳に挟んだが、安倍政権の中枢に位置して談話の草稿を執筆する可能性のある東大教授の言説が怪しい、大丈夫かとの話をしていた。下手な談話を出すくらいなら、まだ出さない方がマシと言っているように聞こえた。原爆が広島と長崎に投下され、アメリカの日本空襲にモラルはあったのか、とのこの本の題名に対する答えは、もう誰もがはっきりと答えを出すことが出来る。少数ながら、米国の心ある人々の胸中には深い傷跡を残していることは間違いない。

Kuroshio 134

「南京大虐殺」は国民党の謀略宣伝

ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝国史観の虚妄」(祥伝社新書)は、平成二五年十二月に発刊され大ベストセラーとなった。この本は、支那が執拗に主張している「大虐殺」は「事実ではない」と断じ、「歴史の史実として「南京大虐殺」はなかった。中華民国政府が捏造したプロパガンダ(謀略宣伝)だった」と強調する。一二二ページには、「国際委員会の報告によれば、南京に残っていた人口は、南京戦の時点で二十万人だった。しかし、南京が陥落してから人口がふえはじめ、翌一月には、二十五万人に膨れ上がった。戦闘が終わって治安が回復されて、人々が南京に戻ってきたのだ。このことからも「南京大虐殺」など無かったことは明白だ。歴史の事実として「南京大虐殺」は、なかった。それは、中華民国政府が捏造した、プロパガンダだった」と要点をまとめている。共同通信は、平成二六年五月八日に、まさにこの記述を、「著者に無断で翻訳者が書き加えた」と配信したが、翌日、著者ストークス氏は、共同通信の記事が著者の意見を反映しておらず誤りであり、また本書に記載されたことは全て著者の見解であり、訂正する必要は無いとの声明を発表した。翻訳者は、国際ジャーナリストの藤田裕行氏である。筆者は、外国特派員協会の準会員であり、有楽町にある同協会のレストランや図書館で両氏が話し込んでいるところを頻繁に見かけてきただけに、共同通信の報道は、両氏を分断して貶める為ではないかとピンときて、両氏を早速わざわざ訪ねて配信記事について感想を直接確かめたところ、ストークス氏からは、「怒っている」との答えで、翻訳した藤田氏との間に齟齬はないとはっきり述べられたので安堵したことだった。要すれば、共同通信の記事は、意図的な捏造で悪意のある虚報であることを両氏から確認した。残念なことに、一部の地方新聞社が共同通信の配信を大きく伝えたにもかかわらず、共同通信は反論するばかりで捏造が維持され、訂正は行われていないので、地方新聞社が掲載した記事の訂正もそのままだ。ちなみに、捏造記事を書いたひとりの外国人記者は、現在北京に駐在している由で、背後関係の有無などについては今後の推移を見守りたい。

 ストークス氏は、一九三八年生生まれの英国人で、オックスフォード大学修士を終了してフィナンシャルタイムズに入社、一九六二年に初代の東京支局長に就任した。六七年には、ザ・タイムズ、七八年からニューヨークタイムズの東京支局長を歴任して、三島由紀夫と親しかった記者としても知られる。外国特派員協会の最古参である。パーキンソン氏病を患っておられ、往年の精悍な風貌は影を潜めたが、日本にいる英国知識人を代表する一人として、この著作は、残された力を振り絞るかのように執筆されたことを想像させる力作である。前書きはほぼ次のように書かれていて、特に圧巻である。「イギリスで生まれ育った私は、日本人は野蛮で残酷だと教え込まれた。来日当初は東京裁判が裁いた日本=戦争犯罪国家論や南京大虐殺を信じ込んだ。しかし、日本に滞在するうちに、第三者の視点、つまり、連合国側でもなく、日本からの視点でもなく、二〇世紀のアジアと日本の歴史を俯瞰したときに、そうした味方が大きな誤りであると気づいた。大東亜戦争は日本の自衛の為の戦いだった。東京裁判は、無法の復讐劇だった。南京大虐殺にしても、信用できる証言は何一つないどころか、外国人記者や企業人を使って世界に発信した謀略(プロパガンダ)であることが明らかだ。日本側からも、抗議したり糺していく動きはほとんど見られないが、歴史事実として確定されないためには、世界に向けて、慎重に訴え続ける必要がある。日本は相手の都合を考えて、阿諛追従する必要はない。物わかりのいい顔をしていればつけこまれてしまうのが、世界の現実だ。しかも、日本人の側から、中国や韓国にけしかけて問題にしたこともまた事実だ。それは日本人が自分で考えることであるが、本書が、日本人が連合国がでっち上げた戦勝国史観の呪いから抜け出す一助となれば幸いである。」

氏は「南京大虐殺」が事実ではないと断定する。虐殺より事件と呼ばれるべきもので、その責任は南京の日本占領によって治安を回復したにほんにではなく、敵前逃亡をした蒋介石にこそ問われるべきだ。中国国民党が国際情報戦に力を入れていた関係で、中華民国政府は情報戦を発動し、中央宣伝部が巧みに欧米のジャーナリストを取り込んで、「大虐殺」が捏造されたとけつろんしている。

 天皇皇后両陛下が、南洋群島のパラオに慰霊の行幸をされることが発表されたが、それに呼応するかのように、海中に沈む日本海軍の給油艦「石廊」の船尾付近に五紅星旗が結び付けられているのを三月二一日に取材で潜った共同通信記者が見つけたとして、支那人ダイバーの仕業かとの報道があった。ストーク氏を貶めようとした共同の配信記事とどこかで繋がっていないかと想像を逞しくさせるが、西表島の海中の珊瑚破壊を自作自演した朝日新聞の捏造をふと思いだした。 (つづく)

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

興味深いリンク