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Kuroshio 135

遺伝子殲滅文明と遺伝子融合文明

 DNAは「デオキシリボ核酸」の略称である。遺伝子の本体であり、分子は二重らせんの立体構造である。人間のDNAには個性があり、同一である可能性は極めて低いので、人間一人一人を特定することができるのではないかと、急速に研究が進展した。人それぞれに異なる指紋に加えて、DNAを鑑定することが、個人個人を特定する切札となったのだ。人間の細胞はたった一個の受精卵から出発して誕生までに約三兆、成長して約六〇兆にもなるが、細胞一個にDNAは六〇億対があるという。同じ型の別人が現れる確率は、四兆七〇〇〇億人に一人とされているが、鑑定の種類はいくつかあり、しかも、現在の技術ではDNAすべてを調べるわけにいかないから、他人であってもDNAの型が一致することがある。つまり、依然として明確でない部分があり、誤判定になる可能性も否定できない。日本で犯罪捜査に実用化されたのは、一九八五年からである。一九九九年に発生した足利事件はすでにDNA鑑定により有罪が確定していたが、再審請求を受けて再鑑定をしたところ、DNA型不一致との結果が出たために、翌年二〇一〇年には再審で無罪が確定している。飯塚事件でも、再審請求が出されている。いわゆる東電OL殺人事件ではDNA鑑定の有効性が裁判で争われ、一審では反対解釈の余地もあるとして無罪となったが、二審では決定的な証拠であるとして無期懲役の判決が出て最高裁で確定した。ところが、二〇一二年に東京高裁にて再審が開始され、DNA鑑定を決め手として一転無罪判決が下されている。このように、DNA鑑定の盲信が冤罪をつくる原因となる事件も多々発生するので、科学万能主義をとることはできない。また、その鑑定の周辺で起きる間違いのために、誤判定があった事例も報告されている。ヨーロッパでは、研究所で試料を攪拌するための綿棒に、工場の労働者のDNAが付着していたため誤鑑定になった事例や、日本国内でも、鑑定試料の取り違えで誤認逮捕を招いた事例も発生している。また、北朝鮮から拉致被害者の遺骨が返還されたとき、それが他人の遺骨であって偽物であることはDNA鑑定で発覚したのだった。拉致被害者の係累の本人確認を行なうためのDNA鑑定用の試料としての毛髪や汗を、訪朝した有能な外交官が握手等をして密かに採取したことも漏れ聞いている。

 DNAについて縷々述べたのは、文藝春秋の編集者から、平成二七年四月号に掲載された「DNAで日本文化の起源が分かった」と題する記事を薦められたからである。古い人骨に残ったDNAを解析することで日本人の起源に迫ることができる可能性が高まったとする記事である。北陸新幹線の建設中に、富山県の小竹貝塚から六〇〇〇年前の縄文前期の遺物が大量に出土した。その中の九一体の人骨について、ミトコンドリアDNA分析をしてみると、現代日本人が三人に一人の割合でもっている「D4型」がまったくなく、南方系の型と北方系の型とが混在していた。南方系とはいっても、台湾にはない型で(朝鮮半島には日本列島から入った末裔の印として二、三パーセントの人口がある)、日本列島に限定される型であったことが分かった。D4型はaからnまで細かく分類され、例えば、D4bはシベリア先住民に多いなど、まだルーツが解明されているわけではないが、縄文時代にも南方系と北方系の人が混在していたことが判明して、「弥生人が来る前に日本に住んでいたのは、「均一な縄文人」であると想定することには無理があるとしている。縄文人は世界のどの時代の誰とも似ていないところがあり、別の見方をするとアジアの広範な地域の人々に少しずつ似たところがあるが、南北の様々な集団が日本列島で融合したことが想像される。急速に精度が上がってきたDNA解析によれば、縄文人の特徴はその来歴よりはむしろ多様さにあることが分かった。こうした南北の異なる地域、すなわち北方的な垂直的世界観と、南方的な水平的世界観とが混じり合った神話を記録したのが古事記ではないか、などと論じられている。

 ミトコンドリアDNAは母系に遺伝するが、Y染色体は父から息子にのみ遺伝する。Y染色体はD型が日本列島に三割いるが、これは、縄文人の遺伝子がそのまま残っている証拠であり、日本の列島で融合がうまくいった結果であって、大規模な征服と虐殺がなかったことが原因ではないかとしている。征服されると男は殺され、女は奴隷にされて、特にY染色体は途絶えてしまうのが大陸での常であるが、日本ではそれがなかった。縄文と弥生の文化が混じり合い、非常に多様で多元的な文化が引き継がれたのだ。敗者を祀ることで、「祟らない」、「鎮まる」と和解を求めたことは古事記にあるとおりだ。日本人のルーツを遺伝的にみると融合の繰り返しで、新しい者に対する排除を最小限にする仕組みを創って集団を維持し、争わずに共に生きて行こうとする傾向が強い、と四月号の記事は結んでいる。沖縄の故川平朝申(かびらちようしん)先生は常々「島々ではイチャリバチョーデ(来たら兄弟)だ」と言っておられた。  (つづく)

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