構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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Struggle against Totalitarian Regine

2008年の8月に書いた拙文である。何故、今ごろになって再度掲載するかというと、一昨日、故正垣親一氏と行動を共にした片岡みい子氏に、東京の郊外のレストランでお会いしたからである。正垣さんが逝去されてから時が経つのは早いもので、15年にもなった。御墓参りに行けずに義理を欠いているとする友人がわざわざ沖縄から東京に出かけてきて、共通の知り合いが経営するレストランで会食をすることになった。ささやかながら、故正垣親一氏を偲ぶ会になった。死ぬ五日前に令夫人となった片岡氏が、「たいへんよく生きました」と題して、正垣親一という「90年代ロシアの支援に奔走し、ロシアとともに生きた男の半生をパートナーの視点から描いた胸に迫る追悼のドキュメント」を今年の2月に出版された。モスクワの独裁政権が国際共産主義の中枢であったときには、全体主義のソ連と闘う日本人はほとんどいなかった。どちらかと言うと、社会主義礼賛の勢力が幅を利かしており、大方の日本の反体制の左翼知識人が全体主義の暴虐には追従するばかりか沈黙する中で、正垣親一氏は、国際サハロフ委員会のメンバーともなって、正面からソビエト全体主義の抑圧と対峙した。ソ連崩壊の混乱の中で、組織に頼らずに、無料食堂などの救援活動を行った。新刊の書は、壮絶な闘病生活はもとより、並外れた行動力をもった故正垣親一氏を追悼するばかりではなく、愛の賛歌ともなっている。ご一読をお薦めする。(最近、ソビエトウォッチャーのひとりロバートコンクェストのことを書いたら、米国で自由勲章を受章されたとの記事が目にとまった。比較するわけではないが、故正垣親一氏の功績は、人間の自由を守った英雄と呼ぶに値すると思う。絶え間なく発信され続けた膨大なファクシミリの記事などは日本のどこか残こっていないだろうか。もし残っていれば、ロシアの地下活動についての日本語による貴重な記録にもなるのだが)
以下拙文。

「8月2日、ロシアの文豪ソルジェニーツィン氏が、逝去した。独裁者スターリンの体制下で逮捕され、収容所生活を描いた文筆活動が注目され、70年にはノーベル文学賞を受賞した。外国に追放され、アメリカのヴァーモント州での亡命生活を余儀なくされたが、スラブ民族主義者として、ソ連崩壊後の祖国の再建のためには、ロシアの伝統を大事にすべきだと主張して、欧米の市場原理主義を批判した。ロシアが第三世界化される可能性についても批判を加えた。むしろロシアの復権を強調するプーチン大統領を称賛する晩年となった。
アンドレイ・アマルリク氏や正垣親一氏が存命であったら、どんな論評になっただろうかと思う。
アンドレイ・アマルリク氏は、「1984年までソ連は生き延びれるか」という論考が、1970年にューヨークのダブルデイ社から刊行されて知られるようになった。70年の11月に逮捕され、カムチャッカのコリマの収容所に送られた。5年の流刑を終えて、モスクワに帰った。イスラエル行きをソ連は勧めたが、拒否して同年九月には再度逮捕される。76年にオランダ行きのビザを入手して、ユトレヒト大学で教鞭をとり、その後アメリカに移った。アマルリク氏は、高校をまず卒業前に放校され、59年にはモスクワ大学の歴史学部に入学する。大学でも、9世紀のロシアにおいて果たしたスカンジナビア人とギリシア人の役割をスラブ人よりも評価する論文を書いて、大学当局の逆鱗に触れて退学となる。65年5月に逮捕され、トムスクの近郊の村に送られるが、父の死があり、モスクワに帰ることが許される。タタール人の芸術家、ギューゼル・マクディノーバと結婚したのはこの頃である。弁護士の支援もあってか、2年半の刑が短縮されて、66年2月には、又モスクワに帰る。68年のチェコスロバキアに対するソ連侵入の事件後、いよいよ弾圧は強まる中で、69年5月と70年2月には、アパートの捜索を受ける。
「1984年」は、勿論、ジョージオーウェルの全体主義批判をもじったもので、一種の文学的な予言の書としては受け入れられたが、当時まともにソ連が崩壊するなどと考える者は、ソ連の内部にも、外部のアメリカにもいなかった。ソ連の経済規模を西側は過大評価しており、張子の熊?だったことが明らかになった。
1980年11月12日、マドリッドで開催された、ソ連崩壊の仕組みを作ったヘルシンキ合意の見直し会合に赴く途中、自動車事故で死んだ。ギューゼル夫人と同上の二人の亡命者は軽傷だったという。 
 筆者が、ボストンで出会ったのは、77年の頃だったと思う。夫人は文字通りの芸術家で、普通のアメリカ人であれば、敵対しないように絵を誉めそやすばかりであるが、好悪をはっきりさせる人であった。ケンブリッジの大学生協の裏にある、芸術講座での批評は、辛らつであった。アマルリク氏ご本人は、こげ茶色のブレザーを着こなして本当に穏やかな話し振りの紳士で、胸もとのポケットに挿した赤いバラが良く似合った。摩天楼のビル街よりも、カテドラルの伽藍の方が似合う夫妻だった。アメリカからフランスに渡り、スイスに近い国境の町に別荘のような自宅を構えたと聞いた。令夫人は、ロシアに戻られたのだろうか。
日本で、ロシアの地下・反体制運動に呼応して活動した、正垣親一氏のことも忘れれない。正垣氏は、1947年7月20日疎開先の長野県生まれ。成城高校時代は水球の選手で、東京外国語大学ロシア科卒。2001年4月16日逝去。60年代末に商社の漁船の通訳のアルバイトとしてはじめてソ連へ行ったという。社会主義礼賛一辺倒の国内の動向とは裏腹に、全体主義が実は陰鬱な抑圧の国家体制でであることに気づいた。正垣氏の著述に触れたのは、ソ連の国際短波放送について書いた論文で、西側の放送を自国民に聞かせないためのジャミング(電波妨害)の仕組みなどで、中央公論に掲載された。国際サハロフ委員会の委員で、良心の囚人を救出するための葉書を出す運動などをされた。地下出版物などを編集して、邦訳して出版する。1983年からはソ連の地下情報についてのサムイズダートの発行、1985年から、氏自身の論評を加えたニュースレターを精力的に発行して、ソ連の圧政の実態について、読者に知らしめた。ファクシミリ送信で、インターネットの時代ではまだなかった。ゴルバチョフ政権になり、ソ連入国が可能となり、頻繁に取材して雑誌や新聞の記事とした。国会議員が、モスクワの集中暖房を誉めそやしていた頃に、石油ストーブと自由の関係を説明し、無料の医療が注射針の取り回しであること、食料の無料配給が欧米では家畜用の穀物であることを解説されたことを思い出す。ソ連崩壊後の混乱の中では、モスクワで、無料食料運動に取り組んだ。組織に頼らず、個人の力で尽くした。2003年11月3日から9日まで、銀座の澁谷画廊で、同氏の三周忌を兼ねて「追悼のロシア展」が開催された。
 さて、チベットや、モンゴルや、トルキスタンや、そして台湾や中国や、圧制に苦しむ諸民族の人士が日本を往来している。日本に対する期待は高まっている。自立・自尊の日本を確立するためにも、ソルジェニーツィン氏や、アマルリク氏、そして、正垣親一氏の軌跡をたどることは無駄ではない。ソ連全体主義同様、郵政民営化など新自由主義の虚妄と、国際的には拝金抑圧の膨張帝国主義が、いずれ崩壊することは単に時間の問題であることに気づくからである。」

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