構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2015年6月

Kuroshio 139

 甥の運転する軽四輪車に乗って故郷の島を一周した。「♪周り二十四里、蘇鉄とキビの徳之島かよ、冬知らず」と徳之島小唄を口ずさみながら、助手席に座っていた。まずは、松原集落のシルシーン坂(しら)の中程に、初代大島松原郵便局長を務めた稲村武明翁の記念碑があるので訪れた。わが郵政民営化反対行動の原点はここにある。次は、西郷隆盛が島流しに遭って蟄居した跡を岡前(わーじん)という集落に訪ねた。昔、島でただ一人の歯医者だった父が出張所を開設していた旅館あけぼのが港のある平土野(へとの)の町にあったが、知るよしもなく通り過ぎた。甥の父親、先代の大島松原郵便局長の出身地である兼久(かねく)は高名な柔道家だった徳三宝先生の出身地だ。西阿木名(にしあぎな)の郵便局の脇を通り過ぎて、秋利神(あきぎやん)の峡谷の上にかかった橋の脇に車を止めて休憩をした。その昔、全島一周の道路工事では、この川の絶壁を下る道が一番の難所だった。舗装道路でもなく、ジープが通る道を肩車して貰って峡谷を眺めた記憶がある。秋利神で獲れたモズクカ二の雑炊を食べた記憶もある。水力発電所もあって、父の弟がそこの電力会社に勤めていたので、川で獲れたカニのお相伴に与ったのだろう。休憩した展望台の上流にはダムが建設され、すでに貯水も始まったとのこと。本当にダムが完成すれば、これまで天水のみに頼っていた島の南部に水が豊富に供給されるようになり、立派な農地も誕生するだろう。内地の資本が入り込んできて土地の買占めが起きやしないかなどと、老婆心ながら思うことだった。

 次に、犬田布(いんたぶ)の集落にある明眼の森に行った。南側に沖永良部の島が遠望できる小高い丘をなしており、亜熱帯植物の群落がこんもりともりあがったような森になっていた。細い道を頂上まで辿ると、香炉が置かれて拝所でもあることが分かった。大木ではないが、タブノキはあった。もしかしたら地名の犬田布は、このタブの群落からつけられた名前かも知れないと想像した。イヌクスとはタブノキの別名であるから、イヌタブとはクスノキの別名かも知れないなどとややこしく考えた。明眼の森は国の指定する天然記念物であるが、島でもそれほど知られていない。荒れた風でもないから、集落の住民の中にちゃんと森を守って来た人々がいるに違いないと敬意を表する。次の集落の阿権(あごん)はどうなっているだろうか、確か鹿浦(しきや)に郵便局があったはずだが、今は移転したとの話も聞いていた。前の局長の中熊さんは、退職されてから時日が経たないうちにお亡くなりになった。阿三(あさん)が父の生まれた集落だ。屋敷があって廃屋が残り、親戚もあるが、立ち寄らなかった。日本で一番長命だった泉重千代さんの銅像が立っている場所もあるが、父方の祖父の墓参りの準備をして来なかったので、静かに立ち去った。伊仙(いせん)町の役場に立ち寄って大久保明町長を表敬訪問した。一度、伊仙町が主催して奄美市町村議員大会があったとき講師として呼んで頂いた御縁があったので、知らない顔をして通り過ぎるわけに行かなかったのだ。仕事の邪魔にならない程度に四方山話をして立ち去った。町長は県会議員の経験もあり、元々はお医者さんであるから、島の医療の現実についていろいろとご高見を拝聴した。

 面縄(うんのー)は、奄美の祖国復帰運動をした泉芳朗先生の生誕の地だ。製糖工場のある目手久(めてぐ)、検福(きんぼう)と通り過ぎて喜念(きねん)の浜に行った。闘牛の牛を、足腰を鍛えるため砂浜を歩かせるらしく、砂浜には、牛の蹄の後が点々と残っていた。砂浜を歩いていてアッと声を上げそうになった。半分砂に埋もれているが、青いプラスチック箱に「気仙沼魚市場」と黒字で書かれた魚箱が打ち上げられている。遙か東北から流れ着いたのだ。志津川の郵便局の前にあった鋼鉄のポストが遙か西表(いりおもて)島に大津波で流出して流れ着いたことが話題になったが、この魚箱も大津波で流出したかどうかは別にして、東北の魚市場に所属する箱が黒潮の反流に乗って徳之島の浜に流れ着いたに違いないと想像しながら、証拠写真を撮った。浜辺を後にして、南原(はいばる)の海岸を通り過ぎた。小学校の時の思い出だが、弁当をもって来ない友達の家が南原にあり、その友達の家に行ってみると本当に食べるものがないほどの貧しさで、世の中にはこんな貧しさもあるのか、と子供心に思った。その友に一回名瀬(なぜ)で会ったが、ヤクザになっていた。左に曲がると尾母(おも)、白井(しろい)という集落があるのはオモシロイことだ。小学校が分校で、校庭の近くの森に、オオタニワタリという大きなシダの群落があった。島の中心地の亀津(かむぃじ)では、その昔、家族が住んでいた場所の前を通り過ぎた。小学校の同級生が数年前に亡くなって、その後島に戻っていなかったので、娘が島の黒砂糖で作った手作りのイタリア風の焼菓子を線香代わりに御霊前に供えようと東京から持参した。その日の夕方に、友達から電話が掛かってきて、亀津にはなぜ泊まらないのかと言われたが、墓参りで松原に来ただけだと弁解して許してもらった。秋に亀津中学校の同窓会が島で開かれ再び帰るが、小学校を卒えて私はすぐヤマトゥに出たから、本当は番外の同窓生だ。




Money Game

投資は重要だが、それは民営化とは本質的に関係がない。公社だろうが国営だろうが投資は重要だ。しかし、上場は別の話だ。上場は延期すべきだろう。郵便局の体型を民営化私物化しようとしたところに誤りがあったのだ。しかも、拝金の外国勢力に追従する,国民資産の海外流出と投機の謀略はもうほどほどにしてやめるべきだ。

http://gendai.ismedia.jp/articles/print/43727

Commission or Domination?

属国になってはならない。

仮訳ここから
2015年6月8日
ファスト・トラックはオバマにEUを連想させる「太平洋組合」を形成し、議会を条約の力に屈服させることを許すだろう(仮訳)

「閉じられた部屋に行き、TPP協定交渉の文書を閲覧してきたが、、これは貿易協定というよりはむしろ国際条約に近いものだということがはっきりした。「生きている協定」条項に示されている、この新しい超国家委員会は、協定が受け入れられた後に、修正をし、新しい参加国を追加し、労働、移民、環境及び商業政策に影響のある規制を発効する権力を持つ。この形成にファスト・トラック権限を与え、(議会の)憲法による3分の2の条約に対する投票を適用することは、その構造を世間が知らない内にグローバル統治機構の構築に対し、憲法による保護を手放すものだ」

ワシントン--- 合衆国上院議員で、移民と国益小委員会委員長のジェフ・セッションズ氏は、下記の書簡を6年間のファスト・トラック権限を通して新しいグローバル統治機構の構築権限を与えることになるオバマ大統領に送り、情報の提供を求めた。文書の内容は以下の通り。

書簡の内容は以下の通り:

親愛なる大統領どの
本年6月6日、私はあなた宛てに、あなたが議会にファスト・トラック権限を与えることを求めていることについて、同封の手紙を送りました。ファスト・トラックの下では、議会はその権限を行政に私、いくつかの議会の基本的な権限を渡すことに合意することになります。これらの譲歩には、法律を書くこと、法律を修正すること、本会議で十分に法律について審議すること、上院でクローチャー動議が出されるまで無制限で議論すること、そして条約が憲法が求める3分の2の賛成票が必要という扱いを受けることを含みます。
後半は特に重要で、閉じられた部屋に行き、TPP協定交渉の文書を閲覧してきたが、これは貿易協定というよりはむしろ国際条約に近いものだということがはっきりしたからです。言い換えれば、政治的、経済的な同盟を、一般市民が全くそうした取り決めをすることを知らないうちに、ファスト・トラックを通して、議会が事前に合意することになるのです。
手紙への返信はいただいていませんが、その中でいくつかの基本的な質問をしました。その答えをいただくまで、議会としてそのような広範囲の新しい権力を行政に与えることを審議することすらできないものです。それらの質問の中に、私はTPPが「TPP委員会」として知られる新しい超国家の統治機構を作るというセクションを公にするよう要求しました。この新しい統治委員会の詳細は、非常に広範囲で、初期のEUと非常によく似た特徴を持つものです。
秘密の文書と、付属の秘密のガイダンス文書を見ると、「生きている協定」条項に示されている、この新しい超国家委員会は、協定が受け入れられた後に、修正をし、新しい参加国を追加し、労働、移民、環境及び商業政策に影響のある規制を発効する権力を持っています。この新しい委員会の下、ブルネイ国王がアメリカ合衆国と等しい投票権を持っているのです。
この新しい太平洋同盟の導入は、途方もなく重要で、十分に、公開の場で議論される必要があり、議会がその構築にファスト・トラック権限を与え、事前に憲法で定められた条約のための三分の二の賛成票を適用するかどうかを熟慮する以前の問題です。
実際には、ファスト・トラックを採用するために、グローバル統治機構構築に対抗する憲法による保護を、そうした構造が世の中に知られる前に手放すことになります。
そのため私はなぜあなたがこの情報を公にせず、私が読んだものの詳細を、アメリカ国民と共有してはいけないのかという法的そして憲法上の根拠を示し、説明を求めたいと考えています。議会はこの新しい組織について完全に公開され人々が読めるようになるまで、国家主権を超国家機構に移行することにファスト・トラックを与えることを審議すら始めてはいけません。
敬具
ジェフ・セッションズ
合衆国上院議員

Odour of Rotten Journalism

とある全国組織が、とあるマスコミと結託して、会社のカネを使って裏金つくりをしているのではないかと連想させるような事案について、友人の関係者から情報提供を受けて、当方ブログは掲載していたが、ウラがとれていない部分があるので、急遽掲載を見合わせることにした。というのは、当方の畏友で硬派のジャーナリストから、そのマスコミには怖い経営者もいる(恐喝犯だった?)ので、何をしてくるかわからない怖さがある、だから慎重にやった方がいいとの忠言を今朝頂戴したからである。小生は、その友人に、マスコミの方で、ウラをとってどんどん報道してほしいものだ、と、当方の希望も申し上げておいた。氷山の一角のようなことを書いて、ちゃんと読んで頂いて、しかも、忠言までして頂けるとは、天網恢々疎にして漏らさずである。やはり、世間は捨てたものではない。ありがたいことです。

Kuroshio 138

南西諸島から観る島嶼防衛の要諦

 平成19年3月30日午後11時40分、陸上自衛隊第一混成団第101飛行隊(当時、ヘリコプター6機、固定翼飛行機3機で、隊員100名の24時間体制。現在、第15旅団第15飛行隊)のCH47型ヘリコプターが、徳之島の天城(あまぎ)岳(標高535メートル)の斜面に激突した。鹿児島県知事の災害派遣出動の要請に従って、急患空輸の任務の為に徳之島総合グラウンドに着陸する予定が、濃霧で視界不良だったため、徳之島の北西部にある徳之島空港に航路を変更して脊梁の山を越えるときに事故が発生した。乗組員の建村善知三佐(鹿児島県出身54歳)、坂口弘一一尉(佐賀県出身53歳)、岩永浩一二曹(長崎県出身42歳)、藤永真司二曹(大分県出身33歳)が殉職した。建村機長は、4850時間、坂口副操縦士は6300時間の飛行経験を持つベテランで、建村機長は7月には定年退職を予定しており、沖縄の黒酢の会社に再就職が内定して、退職の日までの搭乗予定も数回でしかなかった。建村三佐は、マスコミの取材に対して、「敵は気象天候です。」「絶対に(沖縄)県民に信頼される自衛隊でなければならず,防衛任務と急患輸送任務の両方をパーフェクトに行うという重たい任務を第101飛行隊は負っている。」と応答した記録が残っている。全国の中で県知事からの「災害派遣出動」の要請が最も多いのが沖縄県である。多くの島嶼があるために、年間の出動回数は300回にも及ぶというからほぼ毎日の出動となる。殉職した徳之島での墜落事故は、鹿児島県知事の出動要請に基づくものであったが、沖縄の隣の奄美群島の島々は、九州の南端からよりも沖縄本島の方からの方が距離的には遙かに近いから、台風の後の災害復旧でも電力復旧などは、九州電力ではなく、沖縄電力から応援の復旧部隊が出動することが知られている。今回も急患輸送の為に、沖縄から自衛隊のヘリコプターが出動したのだ。南西諸島における救急医療に果たす役割が、主役が地方自治体ではなく、自衛隊の災害派遣出動であるという実態を浮き彫りにしている。軍事組織であるから、気象天候の良否にかかわらず、目的を達成するためには出動する。建村三佐は、生まれ故郷が徳之島で、島で一番賑やかな亀津という集落の出身だったから、同胞が急病になって、その患者を輸送することには殊更の使命感を意識して、那覇空港の一角にある航空隊の格納庫を出立したに違いにない。「災害派遣出動」の回数が全国一多い沖縄県で、反自衛隊の世論が意図的につくられ、陸上自衛隊の司令官が、地元マスコミに言葉尻を掴まれるという事件も発生していた頃で、危険な急患輸送任務を達成しても、マイナス100点からだから、100点満点で当たり前になり、「絶対に」任務を遂行しようとしたことも間違いない。

 五月中旬、筆者は祖母の墓参りの為に帰島した。徳之島空港は島の北東部を占める天城町にあり、旧陸軍浅間飛行場の下の海岸を埋め立てて作った施設であるが、北東にある集落の松原で子供の頃を祖母と過ごした。今では寝姿山などとしゃれた名前がついているが、松原銅山があった馬鞍(まんくら)岳と天城岳とが遠望され、全島一周の道路が横切る川の橋の畔に一族の墓地がある。黒潮の民は先祖崇拝だから、都会生活のサラリーマンは、先祖の位牌(いふぇ)を鞄に入れて持ち運ぶようなことで先祖との繋がりをかろうじて維持しているのであるが、今回は東京郊外に住む甥が数日島に先行して、墓所の掃除をして貰っていたから、観光客のような気分で隣の集落の与名間にある、マラソンの高橋尚子選手などが合宿に使うことで有名になったリゾート?に宿泊した。リゾートはマユ(ねこ)ンハナ(先端)という岬に立地しているから、渡り鳥の通り道で、朝な夕なにあちこちに鳥の声が聞こえて、アカショウビンが「キョロロロロー…」と囀(さえず)り、島名(しまな)が「クッカル」だったことを思い出した。

 島の北東部の山(さん)の集落から登山道が慰霊碑のある尾根までつけられたと聞き、赴いて敬意を捧げることにした。集落共有林の原生林の中の林道を軽自動車で登り、工兵隊によって整備された急峻な階段を更に二十分くらい徒歩で登り、見晴らしの良い尾根に慰霊碑はあった。波濤を越えて、と御影石に彫られ、台石に、昇格した階級と氏名が彫り込まれ、裏に、「徳之島緊急患者空輸に向かった 勇敢なる第101飛行隊 英霊四名ここに眠る 平成二十一年二月吉日建立」とある。筆者は沖縄勤務の時に、故建村大佐が那覇基地の広報係に所属していて知遇を得た。同郷のよしみで事情を憚りなく聞き、格納庫の中を回って三菱のMUという型の国産偵察機?を見学したこともある。島嶼防衛の要諦は、尖閣で一戦を交えることではなく、奄美・沖縄の南西諸島を守ることであるが、慰霊碑のある山(さん)の集落にあったヘルスセンター跡の太陽光発電施設に支那企業が参加しているとの話にはまったく驚かされた。英霊の殉職を無駄にしないよう、特別に立法措置を講じても敵対勢力の島嶼への浸透を断固阻止すべきと考える。支那人民解放軍に制圧蹂躙されたチベットの轍を、わが南西諸島に踏ませてはならない。(つづく)

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