Kuroshio 140
小琉球徳之島一周記
那覇に識名(しきな)園がある。大陸からの冊封使をもてなす庭園だが、敷地のどこからも海が見えない。琉球王国の版図の大きさを印象づけるために、特別の地形に設計・建設された由だ。徳之島の中心部にある三京(みきよう)の集落にも海を眺望できない所があり、三京から亀津に歯の治療に出て来て海を初めて見たという人に会ったことがある。今回は海岸沿いに車を走らせたから、三京に行かなかった。馬根(まーに)に前回泊まったが、今回は寄り道せず、河地(こうち)、糸木名(いときな)、八重竿(えーぞー)、小島(くじま)、亀津の飛地だった崎原(さぎばる)にも行かなかった。島の横断道路ができたので内陸の集落も便利になった。亀津は南区、中区、北区に分かれて、珊瑚礁を埋め立てて市街地が大きくなった。一七世紀以来、薩摩藩の代官所は亀津にあった。明治九年の断髪令では先駆けて亀津断髪が実行された。王朝の沖縄では断髪は圧政の悲劇になり、徳之島では維新の解放として、進取の気風の象徴となった。舟渡(ふなたい)という集落の上の墓地は昔のままだが、浜に屹立していた軍艦石という石灰岩の厳は跡形もない。中区と北区との境の大瀬川の橋の上から網を上げ下げしてボラを捕り、水道がなかった頃には早起きして川水も汲んだ。島の要港は亀徳(あきちゆー)だ。岸壁は南側に移され、港を横切る大橋が架かった。琉球征伐の時の秋徳の戦いの湊だ。亀徳小学校に通う子供達が丁度下校時間で、徳和瀬(とぅくわし)との間の崖道を帰る姿を見た。徳和瀬の海岸には夏の新月の夜にスクの稚魚が押し寄せる。スクは、小骨をちゃんと飲み込めるようになる元服を試す魚だと、以前書いた。次の集落の諸田(しよだ)には池がある。銀鱗の鮒がいて、透き通った水に水草が印象に残る。諸田には、観音堂があった。神之嶺(かんにん)には、小学校があり、浜の名前はシンデ浜(ばま)だ。神之嶺小学校を卒業すれば井之川中学校に行く。井之川(いのー)は高砂部屋の親方になった横綱・朝潮太郎関の出身地だ。本名は米川文敏(よねかわふみとし)。コメディアンの八波(はつぱ)むとしの生誕の地でもある。朝潮関の銅像が島の最高峰井之川岳を背にして立つ。脚本家菊田一夫が書いた八波むとしを追悼する碑もある。鹿児島の城山観光ホテルを創業した立志伝中の人、保直次(たもつなおじ)氏の故郷でもある。イノーとは、珊瑚礁の潟だから、豊饒の海が眼前に広がる。次の集落が下久志(しもくし)である。海岸には珊瑚礁が広がり、亀津から出かけて追い込み漁をして、獲れた魚で饗宴をした。砂地の畑では甘いスイカが実った。集落の広場で、力石を試した。奄美大島にも久志という集落があり、混同を避けるため、下(しも)を加えて下久志となったのは明治二二年のことだった。
母間(ぼま)の集落は海に臨み、麦田川など七つの川が流れる。池閒、大当(おおあたり)、花時名(けどきな)、反川などの集落がある。池閒の珊瑚礁の浅海には、石垣を積み重ねて魚を獲った、石垣クムイの遺構がある。母間と花徳(くぃどぅ)との間に東天城(ひがしあまぎ)中学校がある。花徳には、標高六〇メートルの丘があり、頂上には宮城が(みやぐすく)築かれ、自然石の神体が祀られる。花徳の西に位置する集落が、驫木(とぅどぅるき)だ。集落の北西には藍溜の遺構がある。驫木の山の土は、赤土で鉄分を含んでいるから、その粘土を利用して瓦が焼かれていた。花徳から海岸沿いに、入江に臨む山(さん)がある。上村(うぇーぶ)と言う山里(さんさとぅ)、港川、内千(うち)川に分かれ、畦(あぜ)には小沢一郎氏の別荘があった。金見(かなみ)には蘇鉄の森が茂り、トンバラ石を臨む金見崎灯台からの景色は絶景である。次が手々(てて)である。蘇鉄が向かいの加計呂麻(かけろま)島の諸鈍(しよどん)から初めてここに移植されたと伝えられ、また、琉球王国の築城に手々から技術者として赴いたと伝わる。集落の南側に神川(かむぎよん)の森(むい)がある。島の最北部で季節風の北風は厳しく、山が海に迫る。手々と次の集落の与名間(ゆなま)との間に、徳之島町と天城町の境界がある。徳之島には間切と呼ばれる琉球王国の地方行政単位が三つあり、現徳之島町の東(ひぎや)間切、現伊仙町などの面縄(うんのー)間切、現天城町と手々の西目間切があった。与名間は松原(まちやら)の北にあるが、海岸にムッシュウジという石舞台があり、岬の灯台の一帯には隼洞窟(フェツサーガマ)が見られる。フェッサーとは隼もしくは海賊のことで、密貿易の拠点を想像させる。上質の岩海苔を生産する。沖の活火山の硫黄鳥島(ゆわとぅいしま)は徳之島の兄弟島だが、王朝が直轄したから今も沖縄県に属している。良質の石材が与名間で加工された。沖縄北部・国頭の辺土名と宜名間が徳之島の平土野と与名間に相応じるとして、徳之島を小琉球と呼ぶことがある。与名間の次の集落が、松原の一地名である宝土(ほうどぅ)である。港川の河口には港があり,屋久泊と呼ばれた。松原には大城(ふうぐしく)と呼ばれるグスクの跡がある。与名間寄りの沖の配田(くぶた)には採石場があったことも知られ、唐の開元通宝、北宗の太平通宝、朝鮮通宝など古銅銭が発見されている。松原にはもともと銅山があり、近代的採掘は明治三七年に開始されたが、過酷な環境だったらしく、大正二年の同盟罷業が記録に残る。平均寿命も短く、銅山下の川の水は煮沸しても飲まなかったと言う。宝戸の浜の名前は七貝(なながい)浜と美しい。松原からの海岸沿いに、塩浜(しゆーはま)、川津辺(こうちぶ)がある。大津川(ふうちごー)、瀬滝(せたき)、佐弁、陸軍飛行場跡の浅間(あじやま)も通り過ぎ、西郷が上陸した湾屋(わんや)湊も見ずに全島一周(ぜんといつしゆう)を終えた。 (つづく)
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