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Kuroshio 148

能登半島と黒潮の漂着神

●羽咋(はくい)には、羽咋七塚と呼ばれる古墳がある。かつて高志の北島と呼ばれたこの地に下向して土地を拓いたのは、垂仁天皇の第十皇子の磐衝別命(いわつくわけのみこと)で、その御子磐城別王命(いわきわけおうのみこと)に比定される大塚と大谷塚は、宮内庁によって御陵として管理されている。駅前に古墳があるのも珍しく、姫塚と剣塚が西改札口の左右にある。駅から徒歩五分の大塚の隣地に、磐衝別命などを祭神とする羽咋神社がある。羽咋の地名は、祭神に従っていた三匹の犬が怪鳥の羽を食い破ったことが起源であるとする。陵の土をとった跡の唐土山では毎年秋に古儀による相撲神事があり、日本最古の相撲道場と言われる。相撲、力士の言葉が日本書記と古事記に出現するのは、垂仁天皇の時代と言われるだけに、その皇子の陵の土を採集した土地で今も相撲神事が継続しているのは、興味深い。

●気多大社に行くために羽咋の駅で自転車を拝借する。東改札口から立派に整備された羽咋健民自転車道が、北方の志賀町まで三二キロ延びている。小浦川、羽咋川の橋を渡り、千里浜にある能登海浜自転車道との分岐点をなお北上する。柴垣海岸の松林に沿って十五分も走れば、気多大社の海岸の大鳥居が見えて来る。その前に折口信夫の父子の墓があるので、立ち寄る。墓碑に曰く。

もっとも苦しき たたかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父 信夫の墓 

 折口は自ら昭和二十四年七月に自ら羽咋を訪れて春洋の生家藤井家の墓地に建てている。折口はもともと明治二十年生の大阪の人であり、昭和二年六月に初めて門弟の藤井春洋などと共に能登を探訪して、その時に詠んだ歌が、碑となっている。 

気多大社の境内に 気多のむら 若葉くろずむ 時に来て 遠海原の 音を聴きをり 春畠に春の葉荒びし ほど過ぎて おもかげに師を さびしまむとす 

柳田國男が牝鶏(ひんけい)と諌言した禁色の関係を想像させ、墓は漂着したかのように浜にある。

●気多大社は、もともとは越中国の一の宮であり、能登半島の要衝に鎮座している。近年、大社の南方近くに縄文前期からの寺屋遺跡が発見されており、また日本海沿岸に気多神社が広く祀られている。十月十八日は日本晴れだった。七五三で賑わう参道から伸びる道と海岸の砂浜である千里浜の北部とその北にある滝の港までの地点は、鴫・千鳥の渡りの群れが五月上旬に北上するので、重要な撮影ポイントとして鳥類観察の専門家の間では、有名な場所であると言う。渡り鳥が、能登半島から舳倉島を飛び、日本海を渡るルートがまだ残っているとのことで、鳥類の聖地でもある。気多大社の社叢は「入らずの森」という国の天然記念物となっており、素戔嗚尊と櫛稲田姫を祀る奥宮が鎮座する。昭和五十八年五月二十三日、全国植樹祭が石川県で開催された際に、昭和天皇は気多大社に行幸され、入らずの森入ってお祈りになっている。

斧入らぬ みやしろの森 めづらかに からたちばなの 生ふるをみたり

 戦争中、昭和天皇は陸軍が自分と相談することもなく松代に大本営の地下壕を作っていることを激昂されたが、昭和二十年六月六日に鈴木貫太郎首相は、帝都固守を方針とするよう主張して、陸軍に反対される。それでも翌日に閣議決定事項として宮中で突貫工事を行うことになる。天皇は工事現場を視察され、「ある日、一瞬立ち停られて、じっと地面の草をみつめられた。そして、侍従にいわれた。「あれだけ約束したのに、とうとう踏んでしまったね」天皇は悲しげだった。(加瀬英明著「昭和天皇の戦い」120ページ・勉誠出版)とある。気多大社で配布されている由緒には、御製に続けて、「決してみだりに採取などあそばさない。それぞれの植物が平穏に生存をつづけ、その場所の植物相がいつまでもかわらないようにお祈りになっているからである。「斧入らぬみやしろの森」は、そのところのおよろこびなのである」と書かれ、「神社の生命は祭祀にある」と続けている。

●入らずの森の周りを回る。深山幽谷の雰囲気をめぐると、裏手の池の上に、

くわっこうの なく村すぎて 山の池 

と書いた折口没後十年に寄進された句碑がある。森を横切るようにして抜けると寺屋町の大社焼の窯元の脇に出る。坂道を下りながら、農作業をしている人に春洋の生家を訪ねる。上の家ですと教えられたが、風通しの為か雨戸は空いていたが、日常、人が住んでいる気配ではなかった。立派な破風のある家だ。春洋は國學院の教授でもあった。それから、大きな神社ではないが、気多大社の東三百メートル程の所にある延喜式内社である大穴持像石(おおあなもちかたいし)神社を参拝した。 神社の前は視界が開け、縄文の時代は波打ち際だったに違いない。「黒潮の漂着神を祀ったたぶの杜」が確かにある。折口の古代研究の第三巻の巻頭にあるタブノキの写真が撮られたのはここだ。境内には、鳥居をくぐると右側に地震抑えの石がある。タブノキと併せて地盤強固を示す証拠の石である。(つづく)

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