構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2015年12月

Kuroshio 150

大田区と葛飾区のタブノキの大木

●東京の大田区と葛飾区にタブノキの大木があることを聞いていたが、ようやく訪ねあてることができた。大田区にあるタブノキは、東急電鉄池上線の久が原駅の近く、環状8号線の道路沿いに嶺白山神社があり、その本殿の左側に樹齢600年と推定されるタブノキがある。御(おん)嶽(たけ)山(さん)駅で下車して、まず、駅直近にある御嶽神社に詣でる。江戸時代の後期の天保年間に木曾御嶽山で修業をした行者が現在の社殿を建立して遷座したとされるから、御嶽の名がついた。境内の奥に「霊神の杜(もり)」と名付けられた人工の森がある。崇敬者三五〇人の協力で平成二一年に新しく整備した鎮守の森である。植樹には横浜国立大学名誉教授宮脇昭先生が監修して、「潜在自然植生」の理論に基づき植え育てられた新生の森である。中木、低木、下草を同時に植え、土地本来の本物の樹木である、シイ、タブ、カシなどが雨水だけで育つように工夫して年月の経過と共に木の本数が減り、大小の木々が混じって森を形作るようにしている。確かに、「霊神の杜」は、商店街の中とは思えない静謐な神域の気配をもう作り出している。御嶽神社の鳥居をくぐり右折して、環状8号線に出て南側に道路沿いを歩くと嶺白山神社が鎮座する。地番は、東京都大田区東嶺町31ー17。社殿の左側に屹立するタブノキの常緑の大木は、古木とは思えないほどに青々と繁茂している。

●御嶽山駅に戻り、次の雪谷大塚駅で下車して歩く。駅に大塚の名があるのは、近くに原形を保っている鵜木大塚古墳があるからだ。円墳で高さ約六㍍直径約二七㍍であり、南隅がそぎ落とされて、朱い鳥居が列状にならぶ稲荷の社が造られている。この鵜木大塚古墳は、武蔵国旧荏原郡に豪族と集落があった証拠であるが、近くの亀甲山古墳や宝来山古墳などの多摩川縁に群在している古墳のひとつである。先に紹介した品川区の鹿島神社や、近隣の荏原神社、御嶽神社、白山神社も古代から祭祀の行われた名残の場所であろう。

●常磐線の金町駅で降り、北口から、東水元熊野神社を目指して歩く。神社の敷地にタブノキの巨木が二本植わっているはずだ。途中縛(しば)られ地(じ)蔵(ぞう)尊(そん)に立ち寄る。石の地蔵で、業平(なりひら)山東泉寺南蔵院にある。縄でぐるぐる巻きになった地蔵尊の由来は、大岡越前守の大岡裁きを由来にしており興味深いことである。そもそも南蔵院は、平安の歌人在原業平が、東国に登る旅の途中で、隅田川で舟遊びをして転覆して多くの人が亡くなったので、業平は仏像を刻み、法華経を写経して塚に納めて業平塚とし、その傍らに南蔵院が創建されたと言い伝えられる。橋が架けられて、業平橋になったとのことで、南蔵院の境内の庭石の配置は隅田川の様子を表現しているという。その縛られ地蔵尊から、都立の水元公園は歩いてすぐだ。

●在原業平の時代には、東国に行くのに、房総半島の海を回らず、東京湾に注いでいた利根川を遡って常陸国や武蔵野国に旅をしたに違いない。当時の利根川は東京湾に注いでいたから、波の逆巻く房総の野島崎や犬吠埼を避けて、静かな水系を往来したのである。徳川家康は江戸に幕府を置くとすぐさまに、利根川を銚子に流れるようにするなど関東平野の河川の大改修付け替え工事を開始している。世に「利根川の東遷、荒川の西遷」と称されている。利根川は、文禄三年(1594)に利根川の旧流路のひとつである会の川を締め切り渡良瀬川に合流させ、その後渡良瀬川と鬼怒川を結ぶ水路の掘削を進め、承応三(1654)に鬼怒川と合流させて利根川を銚子へと流れるようにした。渡良瀬川の最下流の流れが江戸川となり、荒川が隅田川の最上流になった。ちなみに、荒川放水路は、明治四四年に工事が着手され、大正十二年には関東大震災があったが、翌年には岩淵水門が完成して上流から下流まで繋がった。付帯工事を含め、荒川放水路が完成したのは、昭和五年である。

●小合溜井(こあいためい)は、東京都葛飾区と埼玉県三郷市との県境に位置する池であるが葛飾区側に水元公園、埼玉県三郷(みさと)市側にみさと公園がある。「溜井」とは、改修工事で廃止された古利根川が用水池に利用されるようになってつけられた名前である。小合溜井に沿って櫻堤と称する土手が東京都側には設けられ、今は花見の名所となっている。古利根川は大きく蛇行していたために、蛇行する川岸に森を作り、湾曲部の中心を芝生の広場にしている。水元公園の中程にタブノキの群落があるが、河川敷のタブノキであるから、公園を整備する際に植えた若い木である。さて、東水元熊野神社は、水元公園の土手の脇にある。古利根川が東京湾に流れていた時代に勧請された社であり、境内には、樹高は約十メートル、周囲約三メートル強の二本のタブノキが聳える。黒潮の民が古利根川に辿りついた際の上陸地点の証拠とすべく建立した熊野神社の御堂の堤に植えられたのだ。品川区の大井町や鹿嶋神社にあるタブノキと同様、東水元熊野神社の二本のタブノキの古木も、古利根川の桜堤に深く根を下ろし、皇城を風水害から護るべく都の艮(うしとら)に屹立する。黒潮の民の東国への旅の艱難辛苦を今に伝え、その艱難辛苦を想像させる神木である。(つづく)

Kuroshio 149

徳之島絶壁に立つ観世音菩薩象

●小学校の卒業式が終わって一週間も経たないうちに島を離れヤマトゥへと旅立ったから、島の中学校には行っていない。亀津中学校の同窓会があり、参加する八八人の仲間の一人にしてもらって帰島したが、全島一周の観光バスで犬の門蓋(いんのじようふた)に立ち寄り、越中高岡と徳之島との悲しい縁を刻んだ絶壁に建立された観世音菩薩像を拝観することになった。高岡を訪ねてから時間が経たないうちに、悲劇の現場で願文を拝読することができたのは、きっと単なる偶然ではなく、門徒衆との結縁があるのではとすら思うことだった。台座の銅板に次のように刻まれている。
 願 
ここ天城は
空も海も人の心も限りなく
さながら観世音の瑠璃光世界の如し
されば 縁により
この地を訪れたる諸人よ
早離 即離のことわりをさとり
今をより美しく過ごされることを
子を失ないし母は
祈願し奉る
「昭和五十二年六月、施主 秋元外美 富山県高岡市」とある。会社の名前は秋元銅器製作所であることも判った。なるほど、絶壁の眼下の海は瑠璃色の大海原だ。黒潮が西方を北上しており、その流れが東支那海と称する陸封の勢力との境界を定め、島々の連なりが、瑠璃光の今をより美しく生きようとする民の世界との間に一線を画していることを体感する。島の東側の喜念の砂浜に、奥州の石巻の魚市場の箱が流れ着いていて、列島の海上の南北の往来が確かであることを実感した経験も、すでに書いた。

●羽咋(はぐい)の大社を訪問した際に高岡に立ち寄ったが、その紀行文に佐藤孝志氏が市長を務めていたことについて触れた。戦後憲法の制定に関与した後の佐藤達夫人事院総裁の子息と書いたが、正確には、佐藤達夫氏には男の子がなく娘が二人あり、姉が結婚したために、妹と結婚する孝志氏が旧姓の楠をやめて佐藤姓に変えたとのことだ。楠家側は姓を変えることに反対したが押し切ったとのことだった。東大の駒場寮に政治経済研究会というサークルがあり、同窓生の懇親会の場で佐藤孝志氏から直に拝聴した(一一月二一日、学士会館)。大蔵省会計課長を自分の意思で辞して市長選挙に打って出たので、市長を退任しても、いわゆる天下りなど大蔵省の世話にはならなかった由である。佐藤孝志氏は昭和三四年に高岡高校を卒業して東大に入学している。筆者の興味は、新憲法の制定に関わった高名の学者官僚が家名を残す伝統に拘ったことであり、「貴方方はもはや天皇の官吏ではない」との講話について、伝統に対する惜別の発言とも解釈できる可能性を感じたので、特に養子縁組のことを書きとどめておきたい。

●黒潮文明論の一三五号分までをまとめた単行本『黒潮文明論 民族の基層と源流を想う』を彩流社から出版した。畏友の元朝日新聞論説委員の今西光男氏は主宰するメディアウォッチに早々に書評を掲載した。日刊工業新聞は、八木澤徹論説委員が執筆して書評を掲載した。霞ヶ関の官界情報の月刊誌『時評』には米盛康正社長の計らいで書評が出た。高橋清隆氏と飯山一郎氏、山崎行太郎氏の有力ブログでも紹介して頂いた。アマゾンのブックレヴユーには小川すみれ氏が書いて下さった。『月刊日本』は表紙裏にカラー広告を出し、版元は読売に新聞広告を出した。『ダイヤモンド』の一一月二一日号はコラム「知を磨く読書」の第125回で、評者を佐藤優(作家・元外務省主任分析官)として、拙著の表紙写真とともに、「冷徹な分析と憂国の情」との見出しをつけて書評を載せた。
 黒潮文明論は、旧郵政省の元幹部で、奄美諸島・徳之島出身の稲村公望氏によるユニークな作品だ。有能な実務家としての冷徹な分析と憂国の情がこの作品の中で見事に総合されている。中央政府のエリート官僚でありながら、国家権力に対して批判的な視座を稲村氏が持ち続けたのは、同氏のルーツが奄美にあることと関係している。1952年4月に発効したサンフランシスコ平和条約で、沖縄や小笠原と共に奄美も日本本土から切り離され、米軍の施政権下に置かれた。翌53年12月に奄美の施政権が日本に返還された。そのときの記憶が稲村氏には鮮明に残っている。
  ∧小学六年生の頃、朝は明けたりの曲と詩が異民族支配から解放された喜びを噛みしめるよう鼓舞したのだろうか(中略)
  「朝だ奄美の朝だ 日に焼けた君らの胸に盛り上がる復興の熱 そうだそうだみんなの汗で生みだそう明るい奄美」という行進曲調の歌が筆者の耳底に今も残るが、もう誰も知らない∨
 境界人としての感覚をもったエリートの奥行きの深さが伝わってくる(後略)。
 佐藤優氏に心から感謝を申し上げる。特にマージナルマンとしての意識について触れた点は図星である。「冷徹な分析」はさほど自慢にもしないが、「憂国の情」と評して頂けたのは、老いて誇りに思うところだ。(つづく)

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