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2016年3月

Kuroshio 155

●米国の畏友ロナルド・モース氏から、遠野市民文化賞を受賞することになったので、代わりに授賞式に出席し受け取って欲しいとの連絡が来た。以前にモース氏とジャッキー夫人、米国通で水沢出身の故椎名素夫議員も加わって、遠野で開催された柳田國男に関するシンポジウムに参加したことがあったし、モース氏とは義兄弟とも思う付き合いなので、快諾すると返事した。モース氏はメッセージを英文と日本文の両方で書いて送ってきたので、それを代読することにしたが、英語と日本語とを交ぜこぜにして、即興を加えて、聴衆に感懐が残るよう工夫した。挨拶文は「遠野の歴史と伝統の普遍性」と題され、内容は次の通りだった。
●ご臨席の皆さま、遠野市民の皆さま、そして遠野市教育文化振興財団の皆さま、この度は、第四二回市民文化賞の受賞にあずかり、誠にありがとうございます。現在私は、アメリカのネバダ州に住んでおり、今回は授賞式に出席できませんので、親しい友人、稲村公望氏に私の代理をお願いいたしました。稲村氏と私は旧知の仲で、兄弟のように親しい間柄でございます。私たちが初めて出会ったのは一九六〇年代で、私がプリンストン大学の大学院の学生で、柳田國男研究のため成城大学に留学しておりました頃です。当時稲村氏はちょうど東京大学を受験している時でした。それ以来、我々は多くの日米研究課題に一緒に取り組みました。稲村氏は、日本の南、つまり沖縄の専門で、私は日本の東北を専門とする学生でした。先程も申し上げましたが、遠野市教育文化振興財団の皆さまには、このような栄誉ある賞をいただき、心から感謝申し上げます。私のように、遠野のような日本の地域社会と、ここまで、親しくさせていただける、幸運な外国人研究者は他にはほとんどおりません。これまで、長年にわたり、遠野の文化遺産を国際社会へ伝えるお手伝いができましたことは、私にとっても、とてもやり甲斐のある楽しい仕事でした。遠野は比類希な場所であり、海外で遠野のことを知った人たちは皆、その伝統に深い感銘を受けます。私が遠野について成し遂げられたことの多くは、皆様の助けなしではできなかっことです。一九七五年の遠野物語の翻訳では、多くの日本人の専門家の方々の助言をいただくことができました。日本語はとても難しい言語であり、当時近所に住んでいた来嶋靖生氏にもたくさんの助言をいただきました。皆さまの多くがご存じのように、来嶋氏は著名な短歌の専門家でございます。遠野物語研究所が作成した『遠野物語』の註釈もまた、翻訳作業において、とても有用でした。また、本田敏秋市長をはじめとする市役所の皆さま、および石田久男氏、前川さおり氏、河内夕希枝氏には長年にわたり、大変お世話になりました。私が遠野で辿った『遠野の歴史と文化』には独自性がありますが、また同時にそれは世界の、どの地域の人であっても理解し、共感できる、社会・文化・宗教的にも普遍性を持ち合わせております。それが理由に、『遠野物語』は今ではフランス語、ドイツ語、スペイン語、そしてイタリア語に翻訳され、また『遠野物語拾遺』も昨年二〇一五年には、英訳版が出版されました。もう一度申し上げます。遠野の強みは、その文化遺産の普遍性にあります。遠野の伝統は、世界のあらゆる地域の人達の、共通した人間の経験を反映するものです。言うまでもなく、これらの伝統を引き継ぎ、意味あるものとして、次の世代へと存続させていくことは、遠野の皆さまが担う責任でもあります。遠野が豊かな伝統に恵まれているため、世界に向けて、この『遠野』が刺激的な文化発見の目的地である、と発信することは、私にとって、容易なことであり、生きがいとなっています。遠野はすでに、海外都市と姉妹都市関係を結んでいますが、将来、遠野の若者たちがもっと海外で学び、住む機会があることを希望しています。遠野が世界でもっと認知されるために、私にできることはいたしました。しかしこれからは、遠野の皆さま一人ひとりが、遠野の文明についてのこのメッセージを世界に向け発信する番です。この賞を頂戴するにあたり、これまで多くの皆様のお力添えがあったことを感謝するとともに、これまでお世話になった皆さまと、この受賞の喜びを分かち合いたいと思います。これまでの応援、励ましに感謝いたしますとともに、このすばらしい賞をいただきましたことを、心よりお礼を申し上げます。 二〇一六年一月三一日
●教育文化振興財団の角田理事長から三枚のメモを頂戴した。まず、日光東照宮の創建についての新聞記事。二枚目が「江戸からみた日光東照宮と北極星」と題する、家康が葬られた久能山、本地仏薬師如来を祀る鳳来寺山、生誕の地岡崎と京都を結ぶ線、北緯三十五度の「太陽の道」、江戸、日光、北極星の「北辰の道」と、日光と久能山との間に富士山がある「不死の道」の図式を書いたメモで、三枚目が北極星、早池峰山、薬師岳、早池峰神社、浜峠地区の遠野斎場、伊豆権現の神社が一直線上にあることを示す「遠野・北辰の道 相関図」だった。(つづく)

Kuroshio 154

台南大地震の現場にて

●「見ると聞くとでは大違い」とはこのことだ。台南で大地震があったので、台湾旅行の機会を捉えて、現場に赴くことにした。羽田空港から日本航空の直通便で台北市内の松山(ソンシャン)空港に向かう。松山空港に直結する松山機場駅で市内電車(MRT)に乗る。この市内電車は無人運転で高架軌道を走る。台北の市内鉄道システムはドイツ製だ。バンコクやマニラでもドイツ製が導入されているところを見ると競争力のあるシステムらしい。日華事変の際、国民党にドイツ人の軍事顧問がいて、日本はドイツ製最新兵器でコテンパンにやられて敗走したことがある。朝や夕方の通勤時間帯にはひっきりなしに自動運転されており、ラッシュアワーの時でも押しくらまんじゅうのような混み具合にはならない。三つ目の駅の忠孝復興駅で地下鉄に乗り換えて、台北車站、つまり、鉄道の台北駅で下車する。EASYCARDという電子カードを買っておけば、小銭を使わず改札を通過できるのは、東京のスイカやパスモと同じだ。高速鉄道で台南に向かう。切符は、日本出発前にネットで予約をして代金をクレジットカードで払ってあったから、予約番号などを書いた一枚の紙を印刷しておいて、それを窓口にパスポートと一緒に差し出すと切符に変えてくれる。外国からの旅行客を奨励しているらしく、ネット予約をすると、二五%割引の運賃になっている。ただし、片道だけの割引だ。三日間の乗り放題の切符もネットで売られている。高速鉄道の車両は日本製であるから、日本の新幹線仕様である。出入口のドアが自動ではなく押しボタンがあって、それを押さないと開かないようになっている。非常用のハンマーが備え付けられていて、非常時には窓を叩き割って脱出せよとの注意書きがある。高速鉄道の台南駅は台南の市街地から遠いところにあるから、高速鉄道を降りてから、台南の市内駅、台鉄の台南駅と連絡する列車に乗り換える。台鉄というのが在来線の呼び方だ。但し、高速鉄道と連絡する線は新しく建設されている。台中も高鉄、つまり新幹線の駅と台中の市街地とが遠く離れているので、市街地に行くにはタクシーが便利で、日本円で千円位の料金で、しかも安心だと、もう百回は台湾を往来しているという、飛行機の隣席の乗客から聞いたところだった。嘉義の駅も市街地と離れていて、バスの連絡が良かったと記憶している。台南駅前のホテルを予約していたが、料金は朝食込みで、一泊二六五〇台湾ドルだった。台北で泊まったホテルは設備は真新しいが、高層ビルの一四階を改装して、朝食を階下のハンバーガー屋から取り寄せて出した。そのホテルが三三〇〇ドルもしたから、台南は台北と比べると物価が相当安いらしい。駅では物乞いをしている人の姿も見かけ、台南には絶対貧困があることも想像した。
●駅前で学生と思しき若者から話を聞いた。地震で完全に倒壊したビルは二棟あって、一棟は台南市内の永康区の永大路二段という場所にあった維冠金龍大楼というビルで、もう一棟は新化区という場所にあるビルである。台南市中心から遠い場所なので、ホテルでタクシーの手配をして貰い、維冠大楼の倒壊現場に行くことにした。タクシーのメーターが二〇〇ドルを少し超えたところで、つまり日本円で千円になるかならないかの距離で現場に着いた。道路は封鎖されていて現場に立ち入ることはできないが、写真撮影のために近寄ることはできた。重機の作業機械が動いており、倒壊したビルの残骸はほとんど撤去されて整地されていた。ビルは地下室をもぎ取るように倒壊したらしく、道路を跨いで倒れ、道路の向かい側の建物も押しつぶしていた。現場には弔いの花束が一〇束ほど手向けられていたから、まずは黙祷を捧げた。周りの屋台の入った建物などには異常が見られないので、不思議に思われた。夕方に会った台南在住の日本人の知人からは、アパートに亀裂が入ったので住居を変える羽目になったことや、おそらく両手の指の数くらいの建物に亀裂が入ったり傾いたりしているのではないかとの情報を得たが、日本のテレビで報道された映像では、もう台南が壊滅したような報道ぶりだった。だが、来てみると、全く限られた場所の被害で、天災と言うより、腐敗と手抜き工事が原因の局地的な人災であることを現場で痛感したことだ。宿泊した駅前のホテルも古い建物だったが、従業員は太い黒光りのする柱を自慢げに指さし、無傷だったと言った。そのついでに「倒壊したビルは台北の業者がカネ儲けに狂って建てたのだ」とコメントしたのは、微妙な地域間の競争対立を想像させて興味深いことだった。日本統治時代の建物が修復されているが、林百貨の店員に地震はどうだったかと聞いたら「品物が落ちて散乱することもなく、ビクともしなかった」と言う。今は古蹟となった台南州知事官邸も台南州庁舎も無傷で、公会堂、測候所、武徳殿、愛国婦人館も、全てが地震に耐えた。大陸の孔子廟は共産党が破壊したが、台南の廟は日本統治時代にも温存されて四〇〇年の歴史を保ち、今回の地震でも壊れなかった。台南はさながら台湾の京都となった。 (つづく)

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