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Kuroshio 156

「遠野物語」と黒潮文明

●授賞式翌日は、早池峰(はやちね)神社に詣でるにも遠野物語の舞台となった猿ヶ石川の淵を巡るにも、もとより時間の余裕がなくて叶わなかったが、遠野市の関係者に新幹線の新花巻駅まで見送って貰う途中で、南部曲屋の独特の保存家屋を観た。南部曲屋は川崎市立の民家園にもあり、そこの囲炉裏の火に当たるのを筆者は毎年の楽しみにしているので珍しくはなかったが、庭の巨石には興味をそそられた。早池峰山を中心とする山塊の下に巨大な岩盤があって、底がどこまで続くのか判らないくらい深いその岩盤の先端が地表に露出したものではないか、と想像してみたのだ。巨大な磐座が地下のあちらこちらにあるのではないかとの夢想である。遠野は『遠野物語』の六五話に「早池峰は御影石の山なり」と書かれているように、安定した地盤にある。先の東日本大震災の時にも被害は少なく、交通の要衝として、三陸沿岸の被災地へ派遣される自衛隊や消防・警察による救援活動の拠点となった。その救援活動の記録が本田敏秋市長により美麗な遠野市の報告書としてまとめられている。
●早池峰山をはじめ遠野市一帯にお社のある瀬織津姫の名前を商標登録した者があり、特許庁が受理したらしく、そんなことが許されていいのかという怨嗟の声を聴いたのは、その見送りの車中だった。帰京後に少し調べてみると確かにそんな愚劣が実行されているらしく、東北の安倍一族の子孫の係累の方が、瀬織津姫にちなんだお香を造ろうとしてそれが商標登録に抵触することになるとのことであきらめたことなどがあったようだ。止まれ、車中の会話からは、遠野の住民が崇敬の対象としてきた女神の名前が商業主義の利権の対象となって私物化され、しかも日本の国家機関がそれを咎めるどころか、その不届きを助長していることに対する遣り場のない憤懣が感じられたのであった。それでは、その商標登録の遙かな昔から瀬織津姫をお祀りする神社が発行してきたお札は、商標登録に違反しないのだろうかとの辛口の批判も聞いたが、図星の反論である。
●柳田國男の遠野物語は、その第一話に遠野の地理を説明している。山々に取り囲まれた平地であると書いて、南部家一万石の城下町であり、花巻から北上川を渡り、その支流猿ヶ石川の渓を東に十三里で遠野に至るとして、大昔は一円の湖水だったが、それが流れ出たのだろうとする。「遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖といふ語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり」と書いている。内は沢または谷のアイヌ語である。第二話では、まず遠野の町が盆地となった平地に川が南北から合流する地点にあると描写し、続けて、「四方の山々の中に最も秀でたるを早池峰と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛山立てり。石上と云ふ山は附馬牛と達曽部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔女神あり、三人の娘を伴いて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の棟の上に止まりしを、末の姫目覚めて窃かに之を取り、我が胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峰の山を得、姉たちは、六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各々三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり」とある。ライは、アイヌ語で死ぬこと、と註釈も加える。第三話以降には「山々の奥には山人住めり」と始めて、山男山女、神隠し、数十年の間独り山に住む人のこと、などの奇談を連ねている。
●遠野物語では姫神の名前を記載していないが、伊豆権現の社、現在の伊豆神社の由緒書には、御祭神を瀬織津姫命、俗名「おない」と明記している。早池峰神社の御祭神は瀬織津姫である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記・日本書紀には記されない神名である。遠野では、瀬織津姫が「お滝さま」として親しまれている。瀬織津姫は、勢いよく流れ落ちる谷川の瀬に坐す神で、罪科や穢れを大海原に持ち出してしまう神様であることが大祓詞に書かれている。川の流れや滝の神様で、河口で速開津比咩に水の流れを引き渡す神様である。瀬織津姫は、伊弉諾尊が禊ぎをしたときに生まれたあまたの神の総称であると言う説があり、天照大神の荒魂で、伊勢の内宮の別宮である荒祭宮であるとするとする見方がある。伊勢神宮の表示板には、天照坐皇大神神荒御魂(あまてらしますすめおほおみかみのあらみたま)、と書かれる。賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつ)命である。本居宣長は、瀬織とは瀬下(せおり)で、伊弉諾尊の中津瀬に降りたって潜ったとの意味があり、禍津日神という悪神である、としている。遠野の伊豆権現には熱海の伊豆山神社との繋がりもあって、温泉が海にほとばしる熱海の走湯から修験者がはるばる来て御神体を祀ったので、伊豆権現という名がつけられたとの伝承にも驚かされる。遠野の伊豆権現の場所に一夜の宿りを構えた大昔の女神は、はるばる海を渡って来た神様であることは間違いない。熱海の走湯権現、今の伊豆山神社は役小角や空海が修行した場所でもあり、女神は、列島沿岸の各地と海路で結ばれていることが想像できる。余談であるが、伊豆山神社に残る北条政子の切り落とされた髷をみると、北条政子は妹背を誓う源頼朝と一対になるべく、瀬織津姫の化身になることを祈願したのではなかったかと想像を逞しくする。兵庫県の西宮の地名由来の大社である廣田神社は天照大神荒御魂、つまり、瀬織津姫を主祭神とする。廣田神社の御領地だった六甲山は元々向津(むかつ)峰と呼ばれ、それが武庫(むこ)となり、江戸時代から六甲(むこ)と表記され「ろっこう」と訓まれた。余談だが、六甲山の国産第一号のロープウェイを建設した阪急の技術者は、徳之島・亀津出身の川浪知熊氏である。黒潮の民が秩父セメントや函館のロープウェイを設計して、イタリアの技術を凌駕したことは知られていない。祇園祭鈴鹿山の御神体も、鈴鹿山で悪鬼を退治した鈴鹿権現、即ち、金の烏帽子をかぶり大長刀(なぎなた)と中啓(ちゆうけい)を持つ一七六センチの長身の瀬織津姫である。ちなみに、修験道の始祖ともいえる役小角が活躍したのは、大化の改新、白村江の戦、壬申の乱と、大動乱の時代であった。瀬織津姫は記紀には記載されなかったが、大動乱の時代に大祓の記録として登場した大昔の神様であることが特徴である。天智天皇の重臣であった中臣金連が瀬織津姫を祓の神として、大祓詞に登場させているが、金連は後に天武天皇に斬首されている。明治天皇の伊勢行幸に至るまで、伊勢に行幸したのが女帝の持統天皇のみであったことは謎に満ちている。
●遠野物語の第一四話の註釈に「オシラサマは、双神なり。アイヌのなかにも此神あること蝦夷風俗彙に見ゆ」とある。続けて「羽後苅和野の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。之と似たる例なり」とあるが、アイヌの神様にも繋がり、それが、男女・陰陽一対の神様であることは興味深い。記紀の以前にあった文書には、瀬織津姫は、男神である天照大神の后神であると記録されているという。確かに、記紀の記載は、太陽神を尊重するあまり、月読尊の世界など女性につながる世界を省略しているのではないかとの指摘もなされ、また、日本書記には天照大神はもともと男神であったが、道鏡が権力を得ようと古書を焼き、天照大神を女神に改竄したのではないかとの説すらある。天白信仰という、信州や駿河を中心として、伊勢志摩を南限、岩手を北限とする民間信仰で、特に伊勢に天白信仰が多かったとされるが、それが、天一神(天一星)と太白神(太白星)との二神を祭るものであり、天一星が北極星で、太白星が金星であるとすれば、早池峰山の北方に輝く北極星とまっすぐに、瀬織津姫の星の社が直線上に連なることで、遠野の北辰の道の謎解きが解決するし、伊勢神宮の内宮の荒魂が、瀬織津姫であることにも納得がいく。しかも、陰陽道からすれば、太白星は凶星であるから、瀬織津姫が禍の神に比定されたことも容易に想像できる。古来、養蚕は女の仕事とされ、紡がないと天下は凍えるから、継体天皇は、農桑の思想、男は農業、女は養蚕と衣食の基本を明らかにしている。遠野の養蚕の神はオシラサマで、柳田國男は、アイヌの神にも通じる二神の片方の女神であると見ぬいている。
●三陸の宮古から金華山に向かって知人のヨットに便乗して航海したことがある。このときに海上から早池峰山を遠望した。早池峰山は、列島の南北を往来する海の民にとって死活を制する目印、澪標の山である。三陸の陸前高田の北方にある五葉山の頂きからは、六角牛山、鶏頭山に続いて早池峰山が一直線上に山並みを連ねて眺めることができる。海の民は、岸近くを航海するときには、早池峰山は隠れて見えないから五葉山を眺めて航海するが、早池峰の頂きを遠望するときには、はるばる遠くに来たことを実感させると同時に、山の頂に舳先を向けさせすれば、必ずふるさとの港に戻れることが保証された。山の見えないところでは、北極星を目指すが、山頂と星との二点が判れば、自分の位置すら特定できる。今回の遠野訪問で聞いたことだが、三陸沿岸の漁業関係者に、早池峰の女神は広く信仰されており、早池峰丸との名前をつけた漁船が数多くある。明治三九年に就航した気仙沼初の焼玉式発動機船の船名も早池峰丸だったし、今も早池峰丸というサンマ漁船が親潮の海を頻繁に往来する。福島県大槌町の安渡漁港の第十八早池峰丸(二〇㍍、一〇〇〇馬力)は七回の津波を二時間全速で走って乗り切ったが、船主は早池峰の神の御利益だと言い切る。『大槌未来新聞』(二〇一三年八月二日号)掲載の五十嵐大介氏の記事は言う。
 亡くなった父も漁師で、父の乗っていた船も『早池峰丸』。父の代から、安渡の港には漁の道具を置く番屋がありました。その番屋の壁に、津波に関する昔からの言い伝えが張ってあり、私も小さい頃から見ていました。陸でイワシが見えたり、普段捕れない魚が捕れたりしたら津波が来る。オヤジが言っていたことは当たったなあと思いました。震災の前の年には、港近くの排水溝でイワシがいっぱい見え、子どもたちがタモでイワシをすくっていました。震災当日の朝は、カモメもカラスも一羽もいなかった。
 瀬織津姫の社のいずこにも剣の形代が貼られ、蝦夷(エミシ)の優秀な製鉄技術と関連して、祇園祭の姫の像の大長刀(なぎなた)の意味合いを直感させる。 (つづく)

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