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Kuroshio 157

大和朝廷の南限と北限

●万葉集の歌の南限と北限とを調べれば、大和朝廷の統治の辺境が奈辺にあったかが判る。まず、北限の地には、 天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま) に金花(くがね)咲く (四〇九七、巻十八)
という大友家持の歌が残る。今の宮城県涌谷町である。天平二一年(七四九)陸奥国小田郡(涌谷町)からの黄金が、東大寺の大仏を鍍金するため、聖武天皇に献上された。越中国守として高岡にいた家持は、聖武天皇の「陸奥国より金を出せる詔書」を賀ぐ長歌と反歌を詠み、その反歌が「須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久」という前掲の歌であり、長歌は、その一節に
  うみゆかば みづくかばね やまゆかば くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ かへりみはせじとことだて(海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃敞尓許曽死米 可敞里見波勢自等許等大弖)
        (四〇九四、巻十八)
とある。この涌谷の産金を祝った長歌が昭和の国民歌謡「海ゆかば」の本歌である。
 南限の地には、万葉集の編纂に関与した大友家持の父である大友旅人と長田王とが、いずれも、鹿児島県の西北部の長島町と阿久根市の間の黒之瀬戸という海峡を詠った歌が二首ある。八代海と東支那海を繋ぐ幅五〇〇㍍、長さ四キロと狭い海峡で、急流のため干潮時に渦潮が発生して、薩摩の隼人の瀬戸と知られた。「帥大伴卿、吉野の離宮を遥かに思ひて作る歌」との詞書がある大伴旅人の歌は、
  隼人(はやひと)の瀬戸の巌も 鮎走る吉野の滝になほしかずけり(九六〇、巻六)
とあり、長田王の歌は、
  隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我は今日見つるかも(二四八、巻三)
とある。大友家持は、藤原仲麻呂暗殺計画に加担した疑いで、天平宝字八年(七六四)に薩摩守に左遷され、薩摩国府が置かれていた、新田神社のある、今の薩摩川内市に赴いた。父大伴旅人も薩摩にゆかりのある人で、養老四年(七二〇)隼人が大和朝廷に反乱を起こしたときに、征隼人持節大将軍に任命され、鎮圧のため薩摩に赴任した。大伴旅人が黒之瀬戸を訪れ歌を詠んだのはその時だ。
●万葉集の北限の歌に東(あずま)とあり、南限の歌の長田王の歌に薩摩(さつま)の表現があるのは、「ア・つま(あそこの端)」と「サ・つま(そこの端)」(黒之瀬戸が南限であるとすれば狭い海峡となる。神武天皇はご幼名を狭野尊(さののみこと)というが、狭をさ、と読む狭野神社もある)とを対とするとする西郷信綱の説を補強しているようだ。南限の地を詠んだ大友旅人の歌に薩摩という字がないのは、海峡周辺をもともと支配していたのは隼人で薩摩ではなかったことを示している可能性もある。
●北限の地を詠んだ、大友家持の歌も東と詠みながら、東の枕詞の「鳥がなく」を省略してあるのは興味深い。「鳥がなく」については万葉仮名で書かれているものと、鶏鳴と表記されている場合とがあるが、柿本人麿のように漢文の素養がある詠み人の場合には、鶏鳴は、鳥鳴けり、夜が明けた、朝だ、曉だ、曙光の出る一瞬だと、理解することが必要で、東国の言葉は都人に理解し難く、鶏が鳴いているようだからとする説、鶏が鳴くぞ、起きよ吾が夫の意で、吾夫になったとする説、鶏が鳴くと東から日が昇るからだという説などは荒唐無稽でしかない。南島では曉を「ハートゥキ」、夜が明けてからを「シトゥムィティ」(しののめ)とはっきり時間を区切っていた。鶏が鳴くのはまだ夜のとばりの中で、天には星が瞬いている時間だった。あけぼのは、しののめの太陽が出て、ぱーと天地が明るくなる一瞬を想わせるが、枕草子が春は曙と言い切っている。そうなると万葉集の北限の歌は、殊更に夜が明けたなどと枕詞を並べずに、黄金が出て大仏殿に使われることを慶賀して、夜が明けるどころか、東国が燦々と日光を浴びている昼間の光景を想像させる歌ではないだろうか。東国を侮蔑するような内容は微塵もない。鳥と鶏とは異なる。万葉集の読みには鳥(とり)三例、鶏(かけ)一例、鶏鳴(アカトキ)一例がある。曉に鳴くのは鶏で、燕雀は鳴かない。
●東(あづま)の用例は、景行天皇が日本武尊に東征を命じた際に「山の東の諸国を号けて吾嬬国と曰ふ」と伝えた例と、常陸国風土記に「古は、相模の国足柄の岳坂より以東の諸の県は、惣べて我姫(あづま)の国と称ひき」との例が見える。万葉集では東歌を東海道の遠江と東山道の信濃より東の国々の歌とする。天武天皇が壬申の乱で「東国に入りたまふ」とされたのは、東海道の伊賀以東を示す。時代が下がるに従って、東国の隆盛と範囲が広がっているようにも感じられる。大和朝廷が東西の二方面に起用した指揮官の命名が、征夷大将軍と征隼人持節大将軍となっているのも興味深い。隼人は朝廷の衛兵となったが、征夷大将軍は江戸幕府が終わるまで大日本の権力と実力組織を担った。薩摩藩が征夷大将軍徳川氏を倒すべく大政奉還を画策したのは、薩摩藩こそ朝廷に派遣された征隼人大将軍を淵源とする正統の守護大名であるとの自負からではなかろうか。 (つづく)

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