構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2016年5月

Kuroshio 159

自立・自尊の先駆者たち

●二◯◯三年一一月三日から九日まで、故正垣親一氏の三周忌を兼ねて銀座の澁谷画廊で「追悼のロシア展」が開催され、筆者も参加したことを記憶する。それから一〇年以上の月日が経過して、故正垣親一氏と行動を共にした片岡みい子氏に、東京の郊外のレストランでお会いしたのは、二◯一五年五月五日のことだった。早いもので、正垣氏が逝去されてから一五年が経っていた。御墓参りに行けずに義理を欠いていると感じて、沖縄の大学で教鞭をとる共通の友人がわざわざ沖縄から東京に出かけてきて、これまたお互いに共通する知り合いが経営する田園都市線沿いのレストランで会食をすることになり、図らずも、故正垣親一氏を偲ぶ会になった。死ぬ五日前に令夫人となった片岡氏は『たいへんよく生きました』と題して、正垣親一という「90年代ロシアの支援に奔走し、ロシアとともに生きた男の半生を、パートナーの視点から描いた胸に迫る追悼のドキュメント」を二◯一五年二月に単行本として出版しているので、詳細を委ねたい。

●モスクワの独裁政権が国際共産主義の中枢であった時には、全体主義のソ連を正面から批判して闘う日本人はほとんどいなかった。どちらかと言うと、社会主義体制礼賛勢力が幅を利かしており、日本の大方の反体制左翼知識人はソ連全体主義の暴虐を見て見ぬふりで追従するかあるいは沈黙するばかり。その中で、故正垣親一氏は国際サハロフ委員会のメンバーとなって、正面からソビエト全体主義の抑圧機構と真っ向から対峙した。ソ連が崩壊した後の混乱の中では、いわゆる組織に頼ることをせずに、私財を投じあるいは募金を集めて、無料食堂などの救援活動を実行した。「日本円が一〇円あれば、一食が可能になる」とも言っていた。片岡みい子氏による新刊書は、壮絶な闘病生活はもとより、並外れた行動力をもった故正垣親一氏を追悼するばかりではなく、愛の賛歌ともなっている。(ソビエトウォッチャーのひとりロバート・コンクェストのことを書いたら、米国で自由勲章を受章されたとの記事が目にとまった。比較するわけではないが、故正垣親一氏の功績は、人間の自由を守った英雄と呼ぶに値すると思う。絶え間なく発信され続けた膨大なファクシミリの記事などは日本のどこかに残っていないだろうか。もし残っていれば、ロシアの地下抵抗活動についての貴重な記録になり、日露友好のための証拠になることは間違いない)

●二◯◯八年八月三日、ロシアの文豪ソルジェニーツィンが逝去した。ソルジェニーツィンは独裁者スターリンの体制下で逮捕されたが、収容所生活を描いた文筆活動が注目され、七〇年にはノーベル文学賞を受賞した。外国に追放され、米国ヴァーモント州での亡命生活を余儀なくされたが、スラブ民族主義者として、ソ連崩壊後の祖国の再建のためにロシアの伝統を大事にすべきだと主張して、欧米の市場原理主義の移入を厳しく批判した。ロシアが第三世界化される可能性についても批判を加えた。むしろロシア復権を強調するプーチン大統領を称賛するソルジェニーツィンの晩年であった。アンドレイ・アマルリク氏や正垣親一氏が存命だったら、プーチン政権にどんな論評を加えただろうか。

●アンドレイ・アマルリク氏は「一九八四年までソ連は生き延びれるか」という論考を書いて、一九七〇年にニューヨークのダブルデイ社から単行本となって刊行され、その名が知られるようになった。アマルリク氏は反体制の知識人として、一九七〇年一一月にソ連の官憲に逮捕され、カムチャッカのコリマの収容所に送られている。五年の流刑を終えて、モスクワに帰った。イスラエル行きをソ連官憲は勧めたが、拒否して同年九月に再度逮捕される。七六年にオランダ行きのビザを入手して、ユトレヒト大学で教鞭をとることとなり、その後米国に移った。アマルリク氏はまず高校を卒業する前に放校され、五九年にモスクワ大学の歴史学部に入学している。大学では九世紀のロシアにおいて果たしたスカンジナビア人とギリシア人の役割をスラブ人よりも評価するとする論文を書いて、大学当局の逆鱗に触れ退学処分を受けている。六五年五月に逮捕され、トムスク近郊の村に送られるが、父の死があって、モスクワに帰ることが許される。タタール人芸術家、ギューゼル・マクディノーバと結婚したのはこの頃である。弁護士の支援もあってか、二年半の刑が短縮され、六六年二月には、またモスクワに帰ることとなった。六八年のチェコスロバキアに対するソ連侵攻の事件後、いよいよ弾圧が強まる中で、六九年五月と七〇年二月には、アパートの捜索を受けている。ダブルデイ社から刊行された「一九八四年」は、むろん、ジョージオーウェルの全体主義批判をもじった名著からとった本の題名であり、一種の文学的予言書としては受け入れられたが、当時まともにソ連が崩壊することになるなどと考える者は、ソ連の内部にはもちろん、外部の欧米世界にもいなかった。ソ連の政治経済の体制について、西側は過大評価して強固な物であると判断しており、それが一気に崩壊することになるなどとは誰も考えていなかった。アマルリク氏の預言は的中したのだ。アマルリク氏は一九八◯年一一月一二日、マドリッドで開催された、ソ連崩壊の仕組みを作った、情報の自由に関するヘルシンキ合意の見直し会合に赴く途中、自動車事故にあって死んだとの報道がインターナショナル・ヘラルド・トリビューンの記事で見かけた。ギューゼル夫人と同乗していた二人の亡命者は軽傷だったというが、アマルリク氏の死亡事故は、ソ連の秘密警察によって仕掛けられた事故死だとの説は根強く残った。筆者が、ボストンで同氏に出会ったのは、一九七七年の秋の頃だったと思う。夫人は文字通りの奔放な芸術家で、普通の米国人であれば、敵対しないように猫なで声で、学生の絵を誉めそやすばかりであるが、夫人は好悪をはっきりさせて、絵の上手下手を明快に、遠慮なく批評した。ハーバード大学のあるケンブリッジの大学生協の裏にある、芸術講座の講師としての批評は、辛辣を極めた。アマルリク氏ご本人は、こげ茶色のブレザーを着こなして本当に穏やかな話し振りの紳士で、胸もとのポケットに挿した赤いバラが良く似合った。シャーリーテンプルの息子が同級生にいたので、筆者の安アパートに招待したら、その学生がタキシード姿で現れたのには驚いたが、アマルリク氏は、それにもまして、しゃれた出で立ちであったことが記憶に残る。アメリカの摩天楼文明のビル街よりも、ニコライ・ベルジャーエフのパリのカテドラルの伽藍の方が似合う夫妻だったから、その後に米国からフランスに渡り、スイスに近い国境の町に別荘のような自宅を構えたと聞いていたが、夫の事故死のあと、令夫人はロシアに戻られたのだろうか。

●日本でロシアの地下・反体制運動に呼応して活動した、正垣親一氏のことも忘れないで記述しておくことが必要である。正垣氏は一九四七年七月二〇日、両親の疎開先の長野県で生まれている。成城高校時代は水球の選手とした活躍した。東京外国語大学のロシア語の学生となり、アルバイトとしてはじめてソ連へ行ったという。その時に、社会主義礼賛一辺倒の日本国内の動向とは裏腹に、ソ連の全体主義が実は陰鬱な抑圧の国家体制であることに正垣氏は初めて気づいたという。商社に就職して、いよいよソ連の体制の矛盾に気づいたと聞いた。筆者が正垣氏の著述に触れたのは、ソ連の国際短波放送を用いた政治宣伝について書いた論文で、西側の放送を自国民に聞かせないためのジャミング(電波妨害)の仕組みなどを解説した、中央公論に掲載された論文であった。当時すでに国際サハロフ委員会の委員で、良心の囚人を救出するための葉書を出す運動などを実行されていた。ソ連で発行される地下出版物などを編集して、それを邦訳して出版する活動もされていた。一九八三年からはソ連の地下出版物、サムイズダートの発行、二年後の一九八五年からは、ロシア専門家としての正垣氏自身の論評を加えたニュースレターを精力的に発行して、ソ連の圧政の実態について、日本の内外の読者に知らしめた。ファクシミリ送信でそのニュースレターは頻繁に送られた。まだインターネットの時代ではなかったから、相当の手間暇がかかっていた。政府の息のかかったラジオプレスの情報を凌駕するような内容を惜しげもなく配信した。筆者が、後にミュンヘンの「自由ヨーロッパの声」の放送局に視察に行ったことなどは、やはり、正垣氏の影響を強く受けたことは間違いない。ゴルバチョフ政権になり、ソ連入国が正垣氏にも認められることとなり、頻繁に訪ソ取材して、雑誌や新聞の記事として発表した。日本の左翼の国会議員が、モスクワの集中暖房のシステムを誉めそやしていた頃に、正垣氏は石油ストーブや白金懐炉と自由の関係を説明し、無料の医療が注射針の使い回しにすぎない拙劣な状況にあること、食料の無料配給が欧米では家畜用の穀物がロシアでは黒パンとなって配給されている実態を明らかにした。ソ連崩壊後の混乱の中では、組織に頼らず、個人の力でモスクワで、無料食料運動に取り組んだ。家業で、乳酸菌飲料を製造販売しておられたから、小田急線の南新宿駅の近くにご自宅があり、駅前の中華料理屋で、さんざんおいしい料理をご馳走になった。筆者が沖縄に赴任した時には、片岡みい子氏共々尋ねてこられて、那覇空港の近くのアパートに泊まって頂いたこともあった。沖縄で浅いプールに飛び込んで、鼻骨を折って血を流したことも後で聞いた。正垣氏は強度の近眼で、トルクメニスタンの深い温泉洞窟で眼鏡泥棒を追いかけたそそっかしい話も聞いた。正垣親一氏が共著者の一人となった単行本『ソ連と呼ばれた国に生きて』(JICC出版局、一九九二)の「あとがき」に泥棒に眼鏡を盗まれた話が詳述されている。

●チベットやモンゴル、トルキスタン、そして台湾や支那など、圧制に苦しむ諸民族の人士が来往し、日本の力に期待を寄せているのを最近はひしひしと感じる。自立・自尊を確立するため、ソルジェニーツィンやアマルリク、そして正垣親一の軌跡をたどることは決して無駄ではない。ソ連の全体主義と同様、郵政民営化を謀る新自由主義の虚妄と、拝金・抑圧・膨張を旨とする帝国主義の圧政がいずれ崩壊することは、単に時間の問題であると筆者は確信するからである。  (つづく)

Kuroshio 158

大倭豊秋津島とトンボ釣り

秋津島とはわが日本の列島のことである。形がトンボの秋津あかねに似ているからとされる。日本書紀では「大日本豊秋津洲」、古事記では万葉仮名で大倭豊秋津島と表記される。トンボにあてる漢字は蜻蛉で、カゲロウとも読む。筆者のふるさとの徳之島の松原集落では、トンボをイージャンボーラという。同じ島の別の集落では、大日本(おほやまと)の古語のあきつに繫がることをはっきりさせて、トンボをあけずと呼ぶ処もある。『与論方言辞典』には、ベール トンボ、トンボ類の総称。トンボの種類には、二ボー、カバーシ、ピング、トーグイ、ドゥーガンマ、マッコー、ナベーラ、ノーダキ、ウイカバー、アーカンジャなどの種類がある。と書かれている。与論島では、トンボをベールと言う。トンボを捕ることをベールクヮーシャーとしているが、魚を釣る人をイュー(魚)クヮーシャーというから、トンボを捕る感覚は、素手や、とりもち、網で採る感覚ではなく、魚を釣る(クヮーシ)感覚と同じであることがわかる。

●珊瑚礁のかけらで白い棒状の石を二本用意して一メールくらいの感覚を置いて糸の両端に結ぶ。それがトンボ釣りの道具である。トンボが飛んでいる時に空中に放り投げると、虫の餌と見間違って飛び込んで来て、糸に絡まって落ちてくる。トンボ釣りの小石を何度も根気よく空中に放り投げなければならないから、そのうち疲れ果ててしまうが、トンボが糸に絡まって、文字通りのキリキリ舞いで落ちてくるのには驚かされる。調べてみると、ヤンマなど大型トンボを捕る方法として、日本の各地で似た方法が伝承されている。

●京都では、トンボ釣りのことをブリと言うらしいが、狩猟用具のスペイン語起源のボーラ(Bolas)の発音に似ている。ボーラとは、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた狩猟用具である。投擲武器でもある。複数の石または金属球またはゴムや木の錘を、革紐やロープや鎖やワイヤーなどで繋いでいるが、トンボ釣りと仕組みの基本は同じである。エスキモーが野鳥を捕るために使い、南米のインディオは、ダチョウ狩りのために使っている。インカ帝国ではスペインから持ち込まれて野生化した馬を捕獲するために、三個の錘が付けられたボーラが使われている。インカ帝国では、武器としても使用された。日本では分銅鎖がついて、忍者が用いた隠し武器がある。敵の骨を木っ端微塵に打ち砕く威力があるので、微塵(みじん)という名が付けられている。近距離で投擲して小動物を捕獲するための長い革紐上の道具を、ゾラというと、十五少年漂流記は記録する。

●在京の松原集落の出身者は、桜が満開の季節を見計らって東京の洗足池で、花見会をしている。満開予想の当たり外れはあるが、第七十八回目の花見会が今年も開かれた。その席で、幼稚園の同級生の香焼節子氏から松原集落誌のDVDを頂戴した。平成二七年二月十五日の日付と、松原上区 松元勝良とラベルに書かれている。フンジュとは大きな溝という意味だとのことや、グスク山があり、琉球のノロ神を祀り、琉球王国の按司(あじ)がなしの話が続く。矢竹(やーでー)がわざわざ植えられているとのことや、生きマブイ(魂)のことも説明される。外便所は、屋敷の入口の左側にあり、ケンモンなどの魔物に追われた時には、外便所に逃げ込めばいいとの話が語られるが、ビデオでみると、現代の外便所は、もはや南島雑話に図示される不潔な構造ではなく、水洗座式の清潔なトイレになっている。集落の背後の山の名前も興味深い。地図には天城(あまぎ)岳となっている。島では、イカ釣りの豊饒の海をイキャウン(烏賊 海)と云った。イカ釣り漁に、手こぎの船で出漁するが、ハーラと呼ばれる丸い編カゴのような形の雲が山頂にかかったら、天候が悪くなるので、港に引き揚げる目印にしたから、雨気岳が本当だろう。命からがら逃げずに済ませる山が雨気岳で、そこには、ノロの拝所もしっかりとあった。伊豆にも天城山があるが、海上天気予報の山に違いない。雨気岳の麓に大城(ふーぐしく)があり、ノロは、集落を回った。ノロが回ったウントニとシュントニという拝所が今も集落に残り、アクチの木が植わっている。何百年経っても大きさも太さもそのまま変わらない木で、植えた人も判らないと解説している。トニというのは、筆者は、古代朝鮮語にもある、谷、窪みのことではないかと推測するが、豚(ワー)の餌を入れる丸太を削ったものをワン(豚の)トーニということはもう書いた。七貝浜の浜降り(はまうぃ)は懐かしい。、芭蕉布(ばさぎん)の新衣(みーぎん)、新築の家(みーや)、草履(さば)、赤ん坊に至るまで、全ての新物(みーむん)を、海辺の潮で浄めた。赤ん坊に砂を踏ませる行事はミーバマ(新砂)クマシだ。浜降りで、ブンブン凧を揚げた。川に橋はなく、水を掛け合う禊ぎをしながら渡った。東南アジアの水掛(ソンクラーン)と同じだ。松元氏が収集したミニ資料館に、カニ採り籠のアローや籾を擦って玄米にするシルシという道具も残る。法螺貝が、猪を追う犬を呼ぶ笛としても使われたのだ。

●さて、子供の頃に楽しんだブランコを島口でなんというか首をひねってようやく、ウジラギと言うと思い出した。都会の陋巷で、忘れられかけた島言葉を保存する生きた化石の役回りの年になるとは思わなかった。(つづく)

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