構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月

Kuroshio 163

鎌倉長谷寺十一面観音像は天武天皇

●鎌倉の長谷寺は、奈良桜井の長谷寺の開基を招請したから、奈良の長谷寺と同じ十一面観音像を本尊とする、と先回書いたが、案内書によると、養老五年に二人の仏師により巨大な楠の霊木から二体の観音像が三日三晩にして造顕され、一体は奈良の長谷寺の本尊となったが、もう一体は行基菩薩によって海中に投じられ、その後十五年が経った天平八年に相模国長井浦の洋上に忽然と顕れた。その報を受けた奈良桜井の長谷寺の開基、藤原房前(ふささき)によって鎌倉に遷座された、という。

●ところが、奈良の長谷寺そのものが、九州の筑紫から藤原氏の手によって移築されたとの説もある。建物は解体して運ばれたが、本尊の仏像は像高三丈三寸(九・一八メートル)にも及ぶ木彫仏であるから、筑紫の観音山から引き出し、筏にして筑後川を下り、有明海へ出て、そこから九州を南に回って薩摩半島を過ぎて黒潮の流れに乗せて運んだのである。しかも、もともと筑紫にあった観音像は、天武天皇が崩御された年に造られたから、奈良と鎌倉の長谷寺の観音像は、天武天皇に生き写しの像であり、仏像を納め観音経を説いた大官大寺は、今の福岡県朝倉市秋月近くの長谷山にあった観音堂に比定される。鎌倉の長谷寺に筑紫の長谷観音がはるばる筑紫の隠国の泊瀬から遷座して奇跡的に鎌倉に残り今日に至っているとする説である。鎌倉において日蓮は法華経を唱えて外国からの侵略の危険を説いたが、その法華経の「普門品第二十五」が観音経である。鎌倉幕府は文永の役、弘安の役という再度の蒙古襲来を辛うじて防いだ。唐の占領軍を九州から追い払った天武天皇が鎌倉に長谷観音として鎮座されていることは先回のタブノキ巡りの際にも気付かず、知識となっていなかった。

●北九州市の八幡市の出身で、横浜市役所に長年勤務した作田正道氏が、平成二一年から現地調査を開始して、四年の執筆期間を経て、平成二七年一二月に東京図書出版から出版した『あをによしの発見』は、筑紫にあった朝廷が八世紀の初めの西暦七二〇年に藤原不比等によって滅ぼされたのではないか、大和朝廷は長谷寺の観音像のように筑紫から移設されたものではないのか、日本書紀、万葉集、続日本紀の歴史記述は改竄されていて、壬申の乱の真相とは天武天皇による唐からの日本国の独立戦争であったこと、柿本人麿の万葉集の歌には、朝鮮半島で戦死した舒明天皇を偲ぶ歌があること、藤原鎌足は不比等の出自を隠すための架空の人物である、大宝律令の制定は、筑紫にあった朝廷により太宰府で行なわれた、等の真実をすべて消し去ったとしている。養老四年九月二八日の続日本紀の記述として陸奥国で反乱が起きたとするが、これを作田氏は「反乱ではない。反乱を起こしたのは藤原氏である。筑紫朝廷の持つ神性に忠誠を誓い、その優れた文化に心酔し、自ら日本国の一員であると認識していた東北の人々による、天皇への反逆者であり野蛮な文明破壊者である藤原氏に抵抗運動が起きたのである」とも書く。

●『あをによしの発見』は四◯三頁の大著で、第一章から第七章まである。第一章は「御井(みい)とは何か」と題して、筑後一の宮の高良大社の御井の地名に着目し、万葉集に現われる御井という言葉を全て拾い出し、合計八ヶ所が出てくることを発見して、これが福岡県中西部の高良山の鳥居前町の地名ではないか、高良大社とはどんな神社なのかを明らかにする。第二章「御井から見える伊勢神宮」では、万葉集の歌三首に基づいて、御井から伊勢神宮が見えることを明らかにし、筑後川河口付近の古代の有明海に、神風の伊勢の海の景色があったのではないかとする。吉野ヶ里遺跡が伊勢の斎宮であり、「山辺の御井にして作れる歌」の、海の底奧つ白波立田山いつか越えなむ妹があたりみむ、の有明海の大きな干満の差から生じて眼下の筑後川を白波を立てて遡る海嘯を詠ったとする。第三章は「万葉集52番の歌」と題し、四つの山を検証し、大分県九重町後野上に吉野神社を発見して、柿本人麿の歌う吉野川とする。通説はこの歌を藤原宮の御井の歌としているが、四つの山が示す都は藤原京ではなく、かつて大分県日田盆地にあった都を示しており、その都こそ、「あをによし奈良の都」であるとの結論を纏めている。第四章「天孫降臨」、第五章「神武東征」においては、葦原中国とは有明海北岸から筑後川流域を指し、天孫降臨とは現在の福岡市西区金武から背振山を越えて吉野ヶ里へ赴いたこととして、神武東征も天孫降臨の再現をしようとしたのではないかと論じる。第六章では、唐の占領軍が太宰府に駐留しており、天智天皇が筑紫都督として唐から帰還する前の西暦六七〇年に天武天皇が日田に奈良の都を建設し、壬申の乱は天武天皇による唐からの独立戦争とする。第七章は朝鮮半島における唐・新羅・高句麗・百済・倭国の関わりを支那の王朝変遷と共に観察し、舒明天皇の新羅との戦いでの戦死と白村江の敗戦、中大兄皇子の投降を三国史記等から推理、中臣金連の子藤原不比等が西暦七一五年に志貴皇子を暗殺し太宰府を侵略したと断じている。

(つづく)


Kuroshio 162

相模タブノキ紀行

●関東平野の洪積台地から相模湾に流れ出す河川のひとつが引地川である。神奈川県大和市の泉の森公園にある湧水を源流として、藤沢市の湘南海岸から相模湾に注ぐ、全長二一・三キロの川である。上流の川縁には千本桜の並木と遊歩道が整備され、中流部には今も水田地帯が残る。下流ではウナギの稚魚(シラス)が獲れる。古代には河川が交通の要路であった証拠に、川沿いに点点と古社が残る。小田急江ノ島線の桜ヶ丘の駅を下車して、引地川沿いに歩くと右岸に田中八幡宮がある。新道下、善光明、札の辻、代官庭という近隣集落の鎮守で、代官庭の田畝の中に鎮座したので、田中神社と呼ばれる。ご祭神は応神天皇だ。そもそも、八幡神社が、源氏が八幡神、応神天皇、百済崑支王を祀った社であるとすると、田中神社も、開拓民が波涛を越えて、引地川を遡って辿り着いた地点を記念する故地であると想像することは、これまで訪れた、霞ヶ浦の高浜神社の近くの台地の崖や、品川の鹿島神社近くの台地の崖にみられるように、引地川の段丘にも古くからの墓地が残ることから、上陸地として納得できる推論である。桜ヶ丘駅の隣駅の名称が高座渋谷駅であるが、相模国の高座郡の東側の中心地であったからである。高座郡の西部の海老名には国分寺があったし、寒川には一の宮として寒川神社が建立されている。引地川と、富士山麓山中湖を源流とする大河の相模川の豊饒の流域が高座郡となったから、相模国の中心として発展した。神社の密集地帯である。当初の高倉郡から後に高座郡に名称が変わっているが、高倉郡は高句麗を表す「高倉」の地名から採用されている。クラとは崖である。ちなみに、武蔵国の新座郡は、新羅人が中心になって郡が置かれたから新の字がついて、当初は新羅郡、「にいくら」としたことは、高座の場合も同様である。藤沢市に高倉という地名の町域が今もある。

●田中八幡宮の背後の河岸の段丘の上の私有地にタブノキの巨木が屹立している。樹高一七㍍、幹廻り三・七八㍍、樹齢約五〇〇年であり、大和市の重要文化財・天然記念物に指定されているとの標識がある。桜が丘駅から歩いて約半時間の距離である。高座渋谷駅からも同じような距離にある。地番は、「大和市代官一ー十九ー七」である。自然な枝振りで、枝も剪定されずに繁茂して、側道に垂れ下がっているほどだ。枝葉を観察するには、最適の木であり、名木と呼ばれるにふさわしいたたずまいである。坂を下ると、鬼子母神の御堂があり、神社ではないから柏手をうって参拝してはいけないと張紙がされていたが、日蓮宗の信徒の多い土地柄にもなっているのだろうか、田中神社にもお寺の影響があり、神仏混淆の気配が強いとの記述があるのは、土地柄がそのせいかと想像した。

●高座渋谷駅の駅前のビルの五階にはスーパー銭湯があって、夏の散歩の後に汗を流したいところだが、鎌倉に急いで向かうことにして、片瀬江ノ島行きの電車に乗った。鎌倉に行くためには、藤沢で江ノ電に乗り換えるのが便利であるが、終点まで小田急線に乗ったから、小田急線の終点から江ノ電の江ノ島駅までかなりの距離を歩くはめになった。江ノ電の長谷駅で下車して、線路にそって極楽寺方向に戻るようにして歩くと御霊神社がある。御霊神社には樹齢三五〇年。高さ約二〇㍍、幹の回り四㍍のタブノキが社務所の隣に聳えている。御霊神社の近くの長谷寺にもタブノキがある。鎌倉の長谷寺は、奈良の長谷寺の開基を招請したと伝えられ、本尊は奈良の長谷寺と同じく、十一面観音像である。タブノキは山門の左側にあり、大きなコブの幹があるが、枝葉は短く奇麗に選定されている。根元の近くには、若い芽がもやしのように生えて来ていた。寺域の中にもタブノキがあるかどうか、寺守の婦人に聞いてみると、境内入口の左隣にもう一本、タブノキがあるという。紫陽花寺として有名であるから三〇〇円也の拝観料を支払うと、確かに「椨の木」と札のついた木が寺務所の脇にすぐ見つかった。本堂からの帰りの坂道の出口の崖にある樹木もタブノキではないかと思ったが、逆光で判別できなかった。

●長谷寺から歩いて五分の甘縄神明宮にはタブノキが繁茂している。祭神は天照大神で、行基が草創し、豪族の染屋時忠が建立した、鎌倉で一番古い神社だという。長谷の集落の鎮守で、公会堂があり、神輿が二基保存されている。甘縄の「甘」は海女で、「縄」は漁をする時の縄だろうとの説があり、源頼義が祈願をして義家が生まれたと伝えられ、後に義家が社殿を修復し、源頼朝も社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたといわれる。北条政子や実朝も参詣したと伝えられ、石段の下には、「北条時宗公産湯の井」がある。近くに作家の川端康成の旧宅があり、小説「山の音」に登場する神社がこの甘縄神明宮だとのことだ。御霊神社、長谷寺、尼縄神明宮のそれぞれのタブノキは、相模の国の海岸段丘の崖に黒潮の民が手ずから植えたのだ。神明宮の高さが昔の津波の波頭が到達した高さを今に伝えているのではないかと想像することしきりであった。(つづく)

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

興味深いリンク