構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2016年8月

Poisonous Dose

情報感度を研ぎ澄ます!—ビジネス情報誌 EL NEOS[ザ・ニュース]という月刊雑誌がある。2016年9月最新号の13ページに、情報スクランブルというコラムがあり、短い囲み記事のひとつとして、「苦境の日本郵便社長に横山邦男氏が再登板」と題する記事が掲載されている。

ヤマト運輸や佐川急便などの大手にことごとく打ちのめされている日本郵便。「売り上げが三兆円、経費も三兆円」と揶揄されるように、民間の物流会社に比べ割高な経費等が足を引っ張り、日本郵政グループの中ですっかりお荷物になっている。2017年3月期の日本郵便の利益は120億円と、六年ぶりの低水準に沈む。さらに深刻なのが,「巨額の買収にも関わらず、全く利益貢献していない海外事業」(大手証券アナリスト)だ。日本郵便が昨年、約6200億円で買収した豪物流会社トール・ホールディングスも「お役所仕事に慣れた日本人幹部が外国人をマネージメントできず、会社がうまく回っていない」(日本郵便幹部)と早くも「巨額ののれん代の償却が待ち受けている」(同)との声が社内から漏れ始めている。こうした状況を打破するため、官邸はあえて劇薬を投入した。かつて生え抜き組や監督官庁である総務省からバッシングを受けて一度、日本郵便を退いた横山邦男・三井住友アセットマネジメント社長を再び招いたのだ。横山氏は三井住友銀行出身。同行頭取から日本郵政社長に転じた西川善文氏の腹心の専務として、「かんぽの宿」の売却や日本通運との宅配便事業統合に関わったが、いずれも計画が頓挫して問題視され、三井住友銀に戻っていた。早速、横山氏はインターネット通販事業者向け代金決済事業から撤退することを決めるなどの改革に乗り出し始めたが、「生え抜きの幹部や各地の特定郵便局の幹部の抵抗、総務省との確執など、お役所体質から脱皮するのは至難の業」(大手証券アナリスト)との指摘は多い。厳しい業績の中、横山氏投入が「吉と出るか凶と出るか」大いに注目される。

とある。大手証券アナリストのコメントが軽妙なおとぼけなところは御愛嬌であるが、出戻りのこわもての経営者が劇薬どころか毒薬ではないかなどと邪推?しかねないような深刻な内容である。ご関心の向きは現物の雑誌を参照されたいが、とりあえず、文字起こしをしてみた。ご参考まで。

Yalta 

清瀬一郎は、東京裁判の弁護団副団長であり、東条英機の主任弁護人を務めた人物である。清瀬は明治十七年、姫路の北方の夢前町杉之内に生まれている。司法省に入ったが、官職を辞し弁護士となり、ドイツに留学し、特許法の専門家として、また、思想事件の刑事弁護士として活躍し、大正九年に衆議院議員に当選している。戦後一度落選したが、その...死に至るまで議員活動を続けている。

  東京軍事裁判についての回想録が、秘録東京軍事裁判との題で読売新聞社から、昭和42年に出版されている。

その回想録の第十二章は、歴史に残さるべき重大問題と題して、原子爆弾投下について東京裁判で追求したことと、ヤルタ協定は知らなかったことが東京裁判を正しく評価するためには重要であると、指摘しているので、
  紹介する。

まず、原爆投下についての追求のことであるが、東京裁判の被告人に1人1人の米人弁護士がついたことを紹介して、その弁護人が、「一旦弁護を引き受けた以上、自分の本国政府に反しても,弁護したる任務を尽くすことに躊躇しない気魄を示した。」と書いている。その一例として、スチムソン陸軍長官が原爆使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとしたことを挙げ、梅津美治郎被告の弁護人だった、ブレークニー弁護人が追求して、この証拠提出が許されたら、世界的な大問題となるべきものだと指摘している。イギリスの検事コミンズカーが、すぐ意義を提出したが、ハーグ陸戦法規の毒ガス、細菌などの兵器の使用を禁ずる規定を盾に反論している。ウェブ裁判長が、原爆の投下が戦争犯罪であると仮定して、何の関係があるかとの問いに対して、ブレークニーは、報復の権利を持ち出してマニラの事件も原爆投下後の事件として考えられると指摘している。「裁判長は、無理押しにこの証拠申し立てを却下してしまった。今でこそスチムソンの原子爆弾使用のことは、世間で知らぬ者はないが、当時はどこで決定されたかはだれも知らなかった。」そのブレークニー弁護人は、東京裁判後もl日本に残り、東大で英米法を教え、東京で弁護士を開業していたが、自家用飛行機で沖縄に渡る際に、伊豆の天城山に衝突してなくなったが、勲二等の叙勲があり、郷里のオクラホマに送ってその目伊具句を祈ったという。木戸幸一被告のローガン弁護人は、「欧米諸国は日本の権利を完全に無視し、無謀な経済的圧迫をなした。また,真珠湾に先立ち、数年間濃いに、かつ計画的に、共謀的に日本に対し経済的、軍事的圧迫を加え、しかもその結果が戦争になることは十分に承知しており、そうげんめいしながら、彼らが右の行為をとったと言う事実がある。また、肯定的弁護として次の事実が証明される。即ち情勢はいよいよ切迫し、ますます耐え難くなったので、日本は欧米諸国の思うツボにはまり、日本からまず手をだすようにと彼等がよきし、希望したとおり、じこのせいぞんそのもののために戦争の決意をせざるを得なくなった」と主張したとして、小磯国昭被告ののブルックス弁護人、大島浩被告のカニンガム弁護人、被広田弘毅被告のスミス弁護人をなかなか気骨のある人物で、「アメリカ自身のあやまちでもこれをあぐるには躊躇しなかった」と書いている。

これは感想にすぎないのであるが、東京を焼け野が原にした米空軍の将軍にやった勲章に比べることはできなくとも、こうした米人弁護人の顕彰を、日本がちゃんとやっていないように思われて仕方がない。最近、マニラの山下裁判の弁護人、フランクリールの回想録を読んで近々月刊日本にその顛末を発表する予定であるが、むしろ日本の方が、世話になった外国人のことを話題にもしなくなり、歴史の検証を怠ってきていることではないかとつらつら考えたことである。今からでも遅くはない。東京裁判で、日本の被告の立場を主張した、米人と外国人弁護士の顕彰を何とか行うことが必要である。戦後レジームの見直しとは強がりをいうことではない。

  清瀬一郎は、ポツダム宣言を受け取ったときにも、ソ連が満洲になだれこんだときにも、ポツダム宣言を受諾を発表したときも、東京裁判が始まった昭和21年の5月の団塊でも、ヤルタ協定の日本に対する部分が知らされていなかったことを指摘して、不正な協定があったことが分かったのは、東京裁判が相当進行した後だった、と回想している。

  昭和二十年の12月に米国陸軍法務官プライスという人がニューヨークタイムスに次のような論文を発表したと紹介して、その内容は、要旨、「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったとして懲罰するようなことだが、無意味だからやめた方がいい、何故なら,アメリカにせきにんがあり、ソ連は、不可侵条約を破って参戦したが、スターリンだけの責任で波無く、戦後に千島、樺太を譲ることをじょうけんとして、日本攻撃を依頼し、共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりしてちょうばつしても、精神的効果はない」として、その内容は日本にもつたわったが、作者が米国人で、しかも軍の法務官であったことには度の大胆さに驚いたとしているが、米国内では、部分的に知られていたが、日本では知られていなかったとしている。

ヤルタ協定は、昭和20年2月クリミヤ半島のヤルタで、米英ソが戦争の最終的撃破の為の会合であった。2月11日に、コムにケを発表して、ドイツの撃破、ドイツの占領管理、ドイツの賠償のことが明らかになったが、日本については秘密とされた。今では、その全文を知ることができるから、その内容は、要旨、「米英ソは、ドイツの降伏の後に、二ヶ月又は三ヶ月後に、ソ連が対日戦争に参加することを協定して、①外モンゴルの現状を維持する、②南樺太と隣接する全ての島はソ連に返還する,,大連商港におけるソ連の理駅を擁護して、港を国際化して、旅順口のソ連の租借権は回復する、東清鉄道、南満洲鉄道は、中ソ合弁で共同運営するが、ソ連の優先的理駅を保障して、中華民国が満洲における完全な主権を保有する、千島列島はソ連に引き渡す、3国の首脳は、ソ連の要求が、日本が敗北した後に確実に満足されることを協定した、ともある。また、ソ連は、ソ連と中華明国との間の友好同盟条約を締結する用意があることを表明する」と言うものであった。

  清瀬一郎は、「ヤルタ協定は、明らかに、ルーズベルトとチャーチルとの間に締結された大西洋憲章に違背しておる。それのみならず、昭和20年2月と言えば、日ソ間の中立条約が厳然として効力を有する時代である」として、「かかる時代に中立義務ある一方を,利をもって誘惑し,理由なき参戦をなさしめ、ポツダム宣言にも事後の参加を許し、対日関係の連合軍の一員につかしめ、検察団に代表を送り、裁判官の席を与えて裁判を進行した。三歳の児童でもこんな裁判に承服するはずがない。「文明」が原告だとか、「永遠の平和」が目的だとか言ってもおかしくてたまらない。果たして裁判以降平和が保たれたであろうか。」と激白して、その章の末尾は、「東京裁判がキーナンの言ったように、永久平和をもたらすことは明らかに失敗した。」と書いている。

Conservative

いつの年の文藝春秋だったが不明だが、土俗の思想と題する一文を亀井静香氏が寄稿している。その原稿が手元に残っていたので、文字興しをした。本質論である。

文藝春秋6月号掲載(5月10日発売)

オピニオン特集「今こそ問う 保守とは何か」(仮題)

               土俗の思想           

                                 亀井静香

 「保守」とは人間同士や自然、生きとし行ける物との共生の思想を包含しつつより良きものを目指すことであり、「革新」は温故知新の概念であるはずだ。しかし現実は怠惰な情念に溺れた保身が「保守」であり、より事故の利益を追う者が「革新」になっている。これらの大きな原因はこの地球に人類が生まれて以来欲望を満たすために文明を追求し続けた結果、環境破壊、原発事故のみならず、人間の心を蝕む形でその反逆を受けているからに違いない。

世界共通の現象であるが我が国に於いても福島原発で人類の存亡に関わる重大な事故を起こしながらも、喉元過ぎれば原発再稼働の動きが大きな流になっている。各紙の世論調査では原発の推進や消費税造成に対しての賛成は少数であるにも拘わらず、選挙に於いてはそれらを推進する政党を国民が支持すると言う矛盾が起きているのだ。

私が知る安倍総理は間違いなく鎮守の森を中心とした皆で助け合っていく村社会を良き日本のイメージとしていたはずだ。ところが現実は村社会の荒廃や格差の拡大という全く逆の状況をどんどん作り出している。こうした現象は明治維新にまで遡る。

一君万民、皆平等の維新の思想が薩長による天皇の政治利用と言う形で文明開化が進められ、歪められた中で自由民権運動も消え去り、水平社が生まれていく事態にもなった。戦後はアメリカの物心両面による占領支配に対してマルクス・レーニン主義、トロッキズム、その他の外来の思想による反撃しか行われず、日本人の「土俗の思想」での反撃は起きなかった。その結果戦後の「保守」はアメリカの支配により利益を成就する層を守る仮面として使われてきた。「革新」もまた外来種の思想に基づく社会を構築する為のものとして機能したのだ。

今日本はこの地球を文明rの反逆から守るという視点から行動すべきであり、その為には行き過ぎたグローバルな金融資本主義や新自由主義を是正し、刊行問題にも自己犠牲を厭わずにリーダーシップを取るべきだろう。

Kuroshio 164

相模のタブノキを巡って

●『万葉集』の東歌で、相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな と詠われる大山(おおやま)が相模の国にある。山頂には磐座(いわくら)があり、阿夫利神社の本社とされる。中腹に阿夫利(あふり)神社下社、大山寺が建っている。今は、ケーブルカーで山麓から下社まで楽に登ることができる。小田急小田原線伊勢原駅からバスに乗って山麓のケーブル駅に行き、そこから大山寺駅を経由して下社最寄りの阿夫利神社駅に登るが、下社からの相模平野の眺望は絶景である。下社から大山山頂までは徒歩で一時間半ほどだ。その大山の北東の山麓に清川村がある。昭和三十一年九月末に 煤(すす)ヶ谷村と宮ヶ瀬村が合併して清川村となるが、平成十三年に宮ヶ瀬ダムが完成して、ダム所在地としての交付金が約八億五〇〇〇万円あり、村の財政は健全で、地方交付税交付がない富裕な地方自治体となっている。神奈川県唯一の村として人口も三千五百人規模を維持している。タブノキの巨木があるのは清川村の古在家(こざいけ)という集落の茶畑の中だ。村役場の近くに道の駅があり、その駐車場に車を停めて、そこから主要地方道伊勢原津久井線(六四号線)沿いに次の集落の古在家に歩いて行くのが便利だ。古在家のバス停を過ぎ北の方角に歩くと、一級河川の子鮎川にかかる中川橋があるが、その手前に(株)山口製材の看板があり、更にその少し手前の路地になった急坂を登り、「二八〇〇」という地番のついた人家の庭の脇を通り抜けて、茶畑に辿り着く。その先の斜面に、かながわ名木百選の一つ「煤が谷(すす たに)のシバの大木」がある。左側には墓地があり、墓碑には山口家と刻まれているところを見ると、山への入口という土地の由来が窺える。古在家の次のバス停は坂尻であるから、相模湾から川を遡って最奥で、山がいよいよ急斜面となるとっかかりの地形にタブノキが植えられたことになる。水が染みだすような湿り気のある土地で、古木には洞ができていて蜂の巣があるらしく、夥しい数の蜂が羽音を立てて飛び回っていた。その枝の下を、特に蜂を刺激する黒い半袖シャツを着て通るのは勇気がいる。私有地の中にあり、ほとんど訪れる人もなく、今は地元にも知らない人が居るほどであるが、タブノキの上の山の斜面にバイパスの車道工事が進んでいるから、そのうちに道路際に車を停めて車窓から楽に眺めることができるようになる。煤が谷には八幡神社の社叢林もあるが、カシの大木はあっても、タブノキは見当たらない。八幡神社の近くに村立「ふれあいセンター別所の湯」があるが、沸かし湯で天然の温泉ではない。入場料が三時間七百円で、食事をすると一時間延長になり、タブノキ巡りの汗を流すのには便利だ。

●清川村の隣の愛川町にもタブノキがある。戦国時代に、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが山岳戦を愛川町三増で繰り広げられたとされるが、北条氏の田代城のあった場所が今は愛川中学校となり、その校内にタブノキが屹立して残る。校舎の建物の間を抜けると、田代八幡神社があり、その脇にタブノキの巨木がある。清川村のタブノキは古木の風格であるが、中学校の校舎の裏にある巨木は、若々しく空に枝葉を延ばし繁茂する。その全容は、八幡神社の急階段から眺めることができる。愛川町角田にも八幡神社があり、竹囲いのタブノキの巨木が残る。

●相模川・道志川流域の山間部になる清川村と愛川町の一町一村が相模国愛甲郡を構成する。歴史的には、現在の厚木市の一部も含まれ、郡衙は今の厚木市内の平野部にあったとの説もある。中世に、厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となり、後に安芸国に移転して戦国大名・近世大名の毛利家に成長している。愛甲の甲は、河(こう)のことだろう。北部の山間部は「奥三保」と呼ばれ、三浦半島にある地名を名乗る津久井氏が今の相模原市に城郭を築いてから平野部一帯の地名が津久井となって、愛甲郡から分離したという。清川村と愛川町のタブノキは、海から遠く離れた場所に植わっているが、相模国の山に分け入る谷川を遡る時に、その上陸地点の目印に植えられたのではないかと想像する。他の海岸沿いの地に育ったタブノキの巨木が航海の標識となったことに通じるものがある。

●愛川町の中津神社の夏祭りの一つで、神輿を担いで川に禊ぎに入る行事がある。列島の沿岸で繰り広げられる浜下りの儀式と本質的に同じである。相模国の一の宮は寒川神社であり、茅ヶ崎の西浜海岸では夜明けとともに茅ヶ崎市と寒川町の神社から三九基の神輿が集まり、海に入る浜降祭として有名である。南島における浜下りは旧暦三月三日の祭りとなっているが、これは、旧暦三月三日が潮の干満の差が一年間で最も大きい大潮に当たり、この日の干潮時に浜や干瀬が最も広がり、磯で魚貝を捕ったり海草を採ることが容易になるからである。愛川町の中津神社の前の小さな水路には豊富な水が滔々と流れていた。洪水になれば社殿を押し流してしまうことにもなるが、またの再生を期して、流れる川の杭となるような樹木を撰んで植え、営々と育ててきた歴史も偲ばれる。(つづく)

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