Kuroshio 164
相模のタブノキを巡って
●『万葉集』の東歌で、相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな と詠われる大山(おおやま)が相模の国にある。山頂には磐座(いわくら)があり、阿夫利神社の本社とされる。中腹に阿夫利(あふり)神社下社、大山寺が建っている。今は、ケーブルカーで山麓から下社まで楽に登ることができる。小田急小田原線伊勢原駅からバスに乗って山麓のケーブル駅に行き、そこから大山寺駅を経由して下社最寄りの阿夫利神社駅に登るが、下社からの相模平野の眺望は絶景である。下社から大山山頂までは徒歩で一時間半ほどだ。その大山の北東の山麓に清川村がある。昭和三十一年九月末に 煤(すす)ヶ谷村と宮ヶ瀬村が合併して清川村となるが、平成十三年に宮ヶ瀬ダムが完成して、ダム所在地としての交付金が約八億五〇〇〇万円あり、村の財政は健全で、地方交付税交付がない富裕な地方自治体となっている。神奈川県唯一の村として人口も三千五百人規模を維持している。タブノキの巨木があるのは清川村の古在家(こざいけ)という集落の茶畑の中だ。村役場の近くに道の駅があり、その駐車場に車を停めて、そこから主要地方道伊勢原津久井線(六四号線)沿いに次の集落の古在家に歩いて行くのが便利だ。古在家のバス停を過ぎ北の方角に歩くと、一級河川の子鮎川にかかる中川橋があるが、その手前に(株)山口製材の看板があり、更にその少し手前の路地になった急坂を登り、「二八〇〇」という地番のついた人家の庭の脇を通り抜けて、茶畑に辿り着く。その先の斜面に、かながわ名木百選の一つ「煤が谷(すす たに)のシバの大木」がある。左側には墓地があり、墓碑には山口家と刻まれているところを見ると、山への入口という土地の由来が窺える。古在家の次のバス停は坂尻であるから、相模湾から川を遡って最奥で、山がいよいよ急斜面となるとっかかりの地形にタブノキが植えられたことになる。水が染みだすような湿り気のある土地で、古木には洞ができていて蜂の巣があるらしく、夥しい数の蜂が羽音を立てて飛び回っていた。その枝の下を、特に蜂を刺激する黒い半袖シャツを着て通るのは勇気がいる。私有地の中にあり、ほとんど訪れる人もなく、今は地元にも知らない人が居るほどであるが、タブノキの上の山の斜面にバイパスの車道工事が進んでいるから、そのうちに道路際に車を停めて車窓から楽に眺めることができるようになる。煤が谷には八幡神社の社叢林もあるが、カシの大木はあっても、タブノキは見当たらない。八幡神社の近くに村立「ふれあいセンター別所の湯」があるが、沸かし湯で天然の温泉ではない。入場料が三時間七百円で、食事をすると一時間延長になり、タブノキ巡りの汗を流すのには便利だ。
●清川村の隣の愛川町にもタブノキがある。戦国時代に、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが山岳戦を愛川町三増で繰り広げられたとされるが、北条氏の田代城のあった場所が今は愛川中学校となり、その校内にタブノキが屹立して残る。校舎の建物の間を抜けると、田代八幡神社があり、その脇にタブノキの巨木がある。清川村のタブノキは古木の風格であるが、中学校の校舎の裏にある巨木は、若々しく空に枝葉を延ばし繁茂する。その全容は、八幡神社の急階段から眺めることができる。愛川町角田にも八幡神社があり、竹囲いのタブノキの巨木が残る。
●相模川・道志川流域の山間部になる清川村と愛川町の一町一村が相模国愛甲郡を構成する。歴史的には、現在の厚木市の一部も含まれ、郡衙は今の厚木市内の平野部にあったとの説もある。中世に、厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となり、後に安芸国に移転して戦国大名・近世大名の毛利家に成長している。愛甲の甲は、河(こう)のことだろう。北部の山間部は「奥三保」と呼ばれ、三浦半島にある地名を名乗る津久井氏が今の相模原市に城郭を築いてから平野部一帯の地名が津久井となって、愛甲郡から分離したという。清川村と愛川町のタブノキは、海から遠く離れた場所に植わっているが、相模国の山に分け入る谷川を遡る時に、その上陸地点の目印に植えられたのではないかと想像する。他の海岸沿いの地に育ったタブノキの巨木が航海の標識となったことに通じるものがある。
●愛川町の中津神社の夏祭りの一つで、神輿を担いで川に禊ぎに入る行事がある。列島の沿岸で繰り広げられる浜下りの儀式と本質的に同じである。相模国の一の宮は寒川神社であり、茅ヶ崎の西浜海岸では夜明けとともに茅ヶ崎市と寒川町の神社から三九基の神輿が集まり、海に入る浜降祭として有名である。南島における浜下りは旧暦三月三日の祭りとなっているが、これは、旧暦三月三日が潮の干満の差が一年間で最も大きい大潮に当たり、この日の干潮時に浜や干瀬が最も広がり、磯で魚貝を捕ったり海草を採ることが容易になるからである。愛川町の中津神社の前の小さな水路には豊富な水が滔々と流れていた。洪水になれば社殿を押し流してしまうことにもなるが、またの再生を期して、流れる川の杭となるような樹木を撰んで植え、営々と育ててきた歴史も偲ばれる。(つづく)
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