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清瀬一郎は、東京裁判の弁護団副団長であり、東条英機の主任弁護人を務めた人物である。清瀬は明治十七年、姫路の北方の夢前町杉之内に生まれている。司法省に入ったが、官職を辞し弁護士となり、ドイツに留学し、特許法の専門家として、また、思想事件の刑事弁護士として活躍し、大正九年に衆議院議員に当選している。戦後一度落選したが、その...死に至るまで議員活動を続けている。

  東京軍事裁判についての回想録が、秘録東京軍事裁判との題で読売新聞社から、昭和42年に出版されている。

その回想録の第十二章は、歴史に残さるべき重大問題と題して、原子爆弾投下について東京裁判で追求したことと、ヤルタ協定は知らなかったことが東京裁判を正しく評価するためには重要であると、指摘しているので、
  紹介する。

まず、原爆投下についての追求のことであるが、東京裁判の被告人に1人1人の米人弁護士がついたことを紹介して、その弁護人が、「一旦弁護を引き受けた以上、自分の本国政府に反しても,弁護したる任務を尽くすことに躊躇しない気魄を示した。」と書いている。その一例として、スチムソン陸軍長官が原爆使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとしたことを挙げ、梅津美治郎被告の弁護人だった、ブレークニー弁護人が追求して、この証拠提出が許されたら、世界的な大問題となるべきものだと指摘している。イギリスの検事コミンズカーが、すぐ意義を提出したが、ハーグ陸戦法規の毒ガス、細菌などの兵器の使用を禁ずる規定を盾に反論している。ウェブ裁判長が、原爆の投下が戦争犯罪であると仮定して、何の関係があるかとの問いに対して、ブレークニーは、報復の権利を持ち出してマニラの事件も原爆投下後の事件として考えられると指摘している。「裁判長は、無理押しにこの証拠申し立てを却下してしまった。今でこそスチムソンの原子爆弾使用のことは、世間で知らぬ者はないが、当時はどこで決定されたかはだれも知らなかった。」そのブレークニー弁護人は、東京裁判後もl日本に残り、東大で英米法を教え、東京で弁護士を開業していたが、自家用飛行機で沖縄に渡る際に、伊豆の天城山に衝突してなくなったが、勲二等の叙勲があり、郷里のオクラホマに送ってその目伊具句を祈ったという。木戸幸一被告のローガン弁護人は、「欧米諸国は日本の権利を完全に無視し、無謀な経済的圧迫をなした。また,真珠湾に先立ち、数年間濃いに、かつ計画的に、共謀的に日本に対し経済的、軍事的圧迫を加え、しかもその結果が戦争になることは十分に承知しており、そうげんめいしながら、彼らが右の行為をとったと言う事実がある。また、肯定的弁護として次の事実が証明される。即ち情勢はいよいよ切迫し、ますます耐え難くなったので、日本は欧米諸国の思うツボにはまり、日本からまず手をだすようにと彼等がよきし、希望したとおり、じこのせいぞんそのもののために戦争の決意をせざるを得なくなった」と主張したとして、小磯国昭被告ののブルックス弁護人、大島浩被告のカニンガム弁護人、被広田弘毅被告のスミス弁護人をなかなか気骨のある人物で、「アメリカ自身のあやまちでもこれをあぐるには躊躇しなかった」と書いている。

これは感想にすぎないのであるが、東京を焼け野が原にした米空軍の将軍にやった勲章に比べることはできなくとも、こうした米人弁護人の顕彰を、日本がちゃんとやっていないように思われて仕方がない。最近、マニラの山下裁判の弁護人、フランクリールの回想録を読んで近々月刊日本にその顛末を発表する予定であるが、むしろ日本の方が、世話になった外国人のことを話題にもしなくなり、歴史の検証を怠ってきていることではないかとつらつら考えたことである。今からでも遅くはない。東京裁判で、日本の被告の立場を主張した、米人と外国人弁護士の顕彰を何とか行うことが必要である。戦後レジームの見直しとは強がりをいうことではない。

  清瀬一郎は、ポツダム宣言を受け取ったときにも、ソ連が満洲になだれこんだときにも、ポツダム宣言を受諾を発表したときも、東京裁判が始まった昭和21年の5月の団塊でも、ヤルタ協定の日本に対する部分が知らされていなかったことを指摘して、不正な協定があったことが分かったのは、東京裁判が相当進行した後だった、と回想している。

  昭和二十年の12月に米国陸軍法務官プライスという人がニューヨークタイムスに次のような論文を発表したと紹介して、その内容は、要旨、「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったとして懲罰するようなことだが、無意味だからやめた方がいい、何故なら,アメリカにせきにんがあり、ソ連は、不可侵条約を破って参戦したが、スターリンだけの責任で波無く、戦後に千島、樺太を譲ることをじょうけんとして、日本攻撃を依頼し、共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりしてちょうばつしても、精神的効果はない」として、その内容は日本にもつたわったが、作者が米国人で、しかも軍の法務官であったことには度の大胆さに驚いたとしているが、米国内では、部分的に知られていたが、日本では知られていなかったとしている。

ヤルタ協定は、昭和20年2月クリミヤ半島のヤルタで、米英ソが戦争の最終的撃破の為の会合であった。2月11日に、コムにケを発表して、ドイツの撃破、ドイツの占領管理、ドイツの賠償のことが明らかになったが、日本については秘密とされた。今では、その全文を知ることができるから、その内容は、要旨、「米英ソは、ドイツの降伏の後に、二ヶ月又は三ヶ月後に、ソ連が対日戦争に参加することを協定して、①外モンゴルの現状を維持する、②南樺太と隣接する全ての島はソ連に返還する,,大連商港におけるソ連の理駅を擁護して、港を国際化して、旅順口のソ連の租借権は回復する、東清鉄道、南満洲鉄道は、中ソ合弁で共同運営するが、ソ連の優先的理駅を保障して、中華民国が満洲における完全な主権を保有する、千島列島はソ連に引き渡す、3国の首脳は、ソ連の要求が、日本が敗北した後に確実に満足されることを協定した、ともある。また、ソ連は、ソ連と中華明国との間の友好同盟条約を締結する用意があることを表明する」と言うものであった。

  清瀬一郎は、「ヤルタ協定は、明らかに、ルーズベルトとチャーチルとの間に締結された大西洋憲章に違背しておる。それのみならず、昭和20年2月と言えば、日ソ間の中立条約が厳然として効力を有する時代である」として、「かかる時代に中立義務ある一方を,利をもって誘惑し,理由なき参戦をなさしめ、ポツダム宣言にも事後の参加を許し、対日関係の連合軍の一員につかしめ、検察団に代表を送り、裁判官の席を与えて裁判を進行した。三歳の児童でもこんな裁判に承服するはずがない。「文明」が原告だとか、「永遠の平和」が目的だとか言ってもおかしくてたまらない。果たして裁判以降平和が保たれたであろうか。」と激白して、その章の末尾は、「東京裁判がキーナンの言ったように、永久平和をもたらすことは明らかに失敗した。」と書いている。

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