構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2016年10月

Quo va Dis, Domine?

「有識者」とは何なのか

天皇陛下の「公務の負担軽減等に関する有識者会議」が6人の構成員(有識者)で組織され、その初会合が10月17日に開催されると、新聞は報じている。有識者会議の事務局を、内閣官房皇室典範改正準備室が担当することになり、同室の体制を強化したことも発表されている。
  有識者会議の女性の構成員のひとりについて、早速、ある週刊誌が「学歴詐称」の問題を取り上げているが、気になることがある。高杉良の経済小説に「虚像」(新潮社、2011年、「虚像の政商」と改題し、新潮文庫に収録)という作品がある。「大泉純太郎内閣の政権中枢に食い込んで、規制緩和の旗振り役となったノンバンクの帝王」が主人公で、一読すれば、誰がモデルなのか、ただちに分かるノンフィクションに限りなく近い小説だ。このなかに、登場する女性「長崎茜」という人物が女性有識者のひとりとよく似ている。畏れ多い問題を検討する有識者会議の一員だけに、気になってならない。同じでないことを祈るばかりだ。念の為だが、その「虚像」は上下巻の大部であるから、関連部分は(上巻の37頁)、第一章「深夜のノック」にある。口にのせることさえ憚る薄汚さを感じるが、事実は如何に。マスコミの調査報道に期待する。

Kuroshio 168

「島」は「しま」である

●徳之島の山の名前のほとんどに、岳(だけ)が使われている。美名田山(やま)の場合は、井之川岳(だけ)、天城岳(だけ)等と異なり、弥生時代の農耕民の新しい島人が付けた名前だろう。古川純一『日本超古代地名解』(彩流社)は解説する(八二頁)。
 沖縄本島の山は、岳が三〇で、山が四のみであるが、対馬では岳は七で、山が四二となり、佐渡島ではついに岳は〇となり、山(やま)が四一、山(さん)が六、峯が三になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。日本の中央部で後続の人種によって岳が消され山(やま)や山(さん)に変えられたのであり、岳が山より古いことを意味している。これは山と岳は日本に渡来した時期が異なっている証明である。
 山の呼び方は、古い順に、峯(ね)、根(ね)、嶺(みね)、岳(だけ)、山(やま)、峯(みね)、山(さん)になる。古い峯、根は少ない。以前、『遠野物語』に関連して早池峰(はやちね)山のことを書いたが、ハヤチは疾風のことであるから、風の吹きすさぶ嶺(ね)の山(さん)という意味になる。「ね」は日光や草津、そして南アルプスの白根(しらね)山の「ね」となって残っている。細かい議論をすると、峯は尖った形状を示しているが、岳はなだらかな傾斜地の連なりを示しているのではないか。例えば、錦江湾の入口にある開聞岳(かいもんだけ)の秀麗さが岳であり、高千穂の峯(みね)となると逆矛(さかほこ)が立てられているかのように尖って屹立する山のことである。霧島(きりしま)山はアイヌ語で山のことをキリ、シリなどとも言い、シマとは石のことだから、火山岩の山を形容しているに違いない。なるほど、日本国中に霧や桐の字をもつ山や峠がある。徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」と言うが、「みに」は峯に繫がる。一説に、岳は西アジアのウル語のダカンから来ているとあり、語源がペルシアにあるとも説く。
 天城町西阿木名には阿木名泊(とまり)があった。泊とは湊のことだ。沖縄本島那覇の港は泊港である。南の島の地名と北のアイヌ語に、湊を泊とする共通性が認められる。フクロウを北のアイヌ語でも南の島でも、共通してチクフと呼んできたことは、既に証明した。
●山と相対している言葉が島である。「し」は衆であり、人である。薩摩の串木野辺りでは、島の人々のことを、シメンシと呼んでいた。「ま」はトポスであり、何処という意味で、沖縄では、どこから来たのか、「マーからチャンが」と尋ねるが、クゥオ・バ・ディス・ドミネ、と言うような深刻な意味ではなく、マが所と場所を示しているだけのことである。島とは単に水に囲まれた陸地のことではない。県庁所在地の福島や鹿児島は島がついている地名であるが、鹿児島の場合のカゴは、世界一の菱刈金山や、鹿児島市の南にある谷山の錫山の例を引いて、鉱山と関連する地名であると指摘した。勿論、ヤクザの世界でのシマは端的に場所のことを示している。長野の上高地に行く松本電鉄の終点に島々(しましま)という駅がある。この地名はアイヌ語の石と場所という意味が合わさっているとの説がある。群馬の四万(しま)、四万温泉、高知の四万十川、伊勢志摩の「しま」もアイヌ語を語源としているに違いない。
●ある尊敬する作家が築地の明石町に居住しておられる。事務所の本棚に群書類従が並べられ、博識に圧倒されるのだが、雑談をしている間に、島の話になった。島(しま)を島(とう)と呼んでいる間は、どこかよそよそしさがあって、日本人の土着の度合いと関連しているかも知れないとの話になった。確かに、南島(なんとう)論と言えば、東京のインテリの流行(はやり)の袢(はん)纏(てん)、浅薄な議論でしかない。なるほど、日本海の島でも、隠岐の島(しま)であり、佐渡ヶ島であり、飛島であるが、北海道に行くと、渡島(おしま)はあっても、奥尻島(とう)だし、焼尻島であり、利尻、礼文も島(とう)をつけて名前にしているのではないかとの話になった。蛍の光の四番の歌詞は、千島のおくも おきなわも やしまのうちの まもりなり とあるが、宮古島(みやこじま)、石垣島(いしがきじま)とあっても、千島(ちしま)全体はそれなりに島(しま)と親しく呼称していても、歯舞・色丹から、国後、択捉、そして北千島に至るまで、個別には島(とう)であるのは、距離感が残り、近代国家の領有権問題となったことを示している。千島の島々の名前のほとんどはアイヌ語に由来しており、ロシア側より日本列島に近かったのは明らかだ。さらに付け加えると、南島でもアイヌにも、半島(とう)という認識はなかったのではないのか。沖縄で今では勝連半島などと呼称している地域があるが、極めて新しい時代に名付けたもので、岬や崎はあっても、半島という定義は、南方同胞にも北方同胞のアイヌにもなく、島(しま)の観念があっただけなのではないか。しかも、ロシアでは樺太が島なのか半島なのか知る関心もなかったのではないのか。だから、間宮林蔵が韃靼海峡の瀬戸を探検して「間宮の瀬戸」を確認、樺太が島(しま)であることが明確になり、樺太島(とう)と千島との交換が日露間で平和裏に成立したのではないか。
●今年の八月八日に発せられた、天皇陛下の「おことば」の中で、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と仰せになられている。辺地や離島(りとう)などではなく、万民を分け隔てなく、はっきりと島々(しまじま)と定義されておられる。(つづく)

Kuroshio 167

わがふるさと徳之島の今昔

●わがふるさと徳之島の天城(あまぎ)町出身者で構成する在京の親睦団体が六〇周年を迎えるとのことで講演を頼まれた。「シマンチュの物語」と題し、島言葉で昔話をすることにした。島の言葉を使って話すこと自体、さながら自分が「生きた化石」になったかのようで、言語は六〇年で入れ替わることがあるという通説を実感した次第だ。講演後に話を聞くと、まるっきり言葉が通じずに、話が分からなかった人もいた。島出身者でも、聞けば分かっても話すことはできない人もいた。島を出たのが小学校の卒業式が終わって一週間後だったから、それからあっという間に五五年の月日が経った。今では南島言語保存会の老人会員になってしまったようだ。講演では徳之島の三町の一つである天城町北部の松原(まちやら)集落の言葉を使った。篤志の知人は、南島言語の音声標本?としてネットに掲載すると言っていた。
●持ち時間は一時間だった。「うっさんげーぬ、ちゅーぬめーなんてぃ話さーゆかや」(そんなに多くの人々の前で話ができるかな)と始めたら、拍手をした人もいた。まず、天城町の地勢を説明して天城岳(五三三メートル)、三方通(さんぽうつう)岳(四九五メートル)、美名田(みなだ)山(四三七メートル)、井之川岳(六四四メートル)の山嶺があり、子から、港川、湾屋(わにや)川、真瀬名川、秋利神(あきぎやん)川などがあることを説明して、縄文時代の遺跡は高さ八〇メートル以上の海岸の台地上にあり、弥生時代以降の遺跡は海岸の二五メートル以下の砂丘にあると説明した。海から徳之島の陸地を見ると、海岸はほとんど絶壁で、台地が並んでいるように見えるが、島の南部にある伊仙町に大きな遺跡があった。どちらかと言うと、天城町には水田などが開けて、岡前田袋とよばれるような水田が広がっている景色があるが、島尻の伊仙町では天水を当てにする畑作が中心だった。サトウキビ作りが盛んで製糖工場も複数あった。徳之島には琉球王国の地方行政区分である間切として、東(しぎや)間切、西目(にしめ)間切、面縄(うんのう)間切の三つがあった。慶長一四年の薩摩島津氏の琉球征伐により、与論島以北は薩摩の直轄領となり、亀津(かむぃじ)に代官所が置かれた。明治四一年になって天城村が成立したが、大正五年には徳之島の北東部の集落が東天城村として分立、今は徳之島町の一部となっている。西目間切の北部は岡前曖(わーじん)、南部は兼久(かにく)曖という行政区分に細分化され、同じく今は徳之島町に属している最北部の金見(かなみ)と手々(てぃてぃ)は、琉球王国の時代には岡前曖に属していた。手々は、石垣を積むことに勝れた技術があり、王国の首里に招かれて築城に携わった。蘇鉄を奄美大島から移植したので、その名残が金見の蘇鉄のトンネルとなっている。天城町の中央部に位置するのが、阿布木名(あぶきな)の集落だ。東部が天城で、海岸部が平土野(へとの)と呼ばれる港町だ。沖縄本島北部に辺土名という集落があるが、同じ名前だ。沖縄の恩納(おんな)と徳之島の面縄(うんのう)も、宛てている漢字が違うだけで、南島語では同じ地名だと思う。奄美大島に阿木名(あぎな)という地名があるから、徳之島の阿木名は西阿木名(にしあぎな)と呼ばせるように区別してあるし、徳之島町下久志(しもくし)は、奄美大島の久志と区別するために下(しも)をつけた。兼久に至ってはあちらこちらにある、奄美市の名瀬金久町は、奄美を大島郡として旧大隅国に編入した際に郡役所を置いた場所だ。
●徳之島一の大河が秋利神川で、ダムが間もなく完工する。徳之島の水の問題が解決するから、サトウキビの生産力も大幅に伸びる可能性が高い。今は、大きな橋が架かっているが、秋利神川は深い峡谷を海岸に刻んでおり、難所の一つだった。わざわざ谷底まで降りて行ってまた昇らなければ、瀬滝(したき)の集落から、隣の天城町の最南部に位置する西阿木名には行けなかった。船で黒糖の樽を運んだ方が、よっぽど簡単だった時代が長かったのである。秋利神川に、発電所を作ったのが、浅松啓良技師だ。徳之島出身の先駆者がネット上でリストにして公表されているので、関心のある方は、「徳之島先駆者の記録」を検索して頂きたい。六甲山や函館ロープウェイの設計者も徳之島出身の人物である。秋利神川の奥の盆地に三京(みきよう)の集落がある。三京には海が見えない場所があり、亀津に来て初めて海を見たという人に会ったことがある。那覇の識名公園は冊封使を接待する際に、琉球王国が大きいことを見せるためにわざわざ海が見えない場所に築いたというが、三京は徳之島の大きさを体験する為にはいい場所だ。昔は不便だったが、今は立派な道路が整備されて直ぐ行ける。平土野から浅間への海岸部には、風葬の跡と言われる洞穴の墓があった。阿布木名の北隣が浅間(あじやま)だ。浅間には湾屋湊がある。文久二年に西郷隆盛が流人として上陸した所だ。浅間には空港があるが、陸軍浅間飛行場とは別の場所だ。浅間の北が岡前(わーじん)だ。岡前には、海側に川津辺(こうちぶ)と塩浜(しゆうはま)の集落がある。山側は前野(めーぬ)という。西郷隆盛は岡前に寄寓していた。岡前の北が松原だ。上区(うぇーく)、西区、播州(ばんしゆう)、宝戸(ほうどぅ)に分かれる。ここには銅山があった。北側が与名間(ゆなま)だ。与名(ゆな)は細かい珊瑚が砕けた白砂だ。沖縄の与那原、与那国島の「与那」に繫がる。 (つづく)

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