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Kuroshio 167

わがふるさと徳之島の今昔

●わがふるさと徳之島の天城(あまぎ)町出身者で構成する在京の親睦団体が六〇周年を迎えるとのことで講演を頼まれた。「シマンチュの物語」と題し、島言葉で昔話をすることにした。島の言葉を使って話すこと自体、さながら自分が「生きた化石」になったかのようで、言語は六〇年で入れ替わることがあるという通説を実感した次第だ。講演後に話を聞くと、まるっきり言葉が通じずに、話が分からなかった人もいた。島出身者でも、聞けば分かっても話すことはできない人もいた。島を出たのが小学校の卒業式が終わって一週間後だったから、それからあっという間に五五年の月日が経った。今では南島言語保存会の老人会員になってしまったようだ。講演では徳之島の三町の一つである天城町北部の松原(まちやら)集落の言葉を使った。篤志の知人は、南島言語の音声標本?としてネットに掲載すると言っていた。
●持ち時間は一時間だった。「うっさんげーぬ、ちゅーぬめーなんてぃ話さーゆかや」(そんなに多くの人々の前で話ができるかな)と始めたら、拍手をした人もいた。まず、天城町の地勢を説明して天城岳(五三三メートル)、三方通(さんぽうつう)岳(四九五メートル)、美名田(みなだ)山(四三七メートル)、井之川岳(六四四メートル)の山嶺があり、子から、港川、湾屋(わにや)川、真瀬名川、秋利神(あきぎやん)川などがあることを説明して、縄文時代の遺跡は高さ八〇メートル以上の海岸の台地上にあり、弥生時代以降の遺跡は海岸の二五メートル以下の砂丘にあると説明した。海から徳之島の陸地を見ると、海岸はほとんど絶壁で、台地が並んでいるように見えるが、島の南部にある伊仙町に大きな遺跡があった。どちらかと言うと、天城町には水田などが開けて、岡前田袋とよばれるような水田が広がっている景色があるが、島尻の伊仙町では天水を当てにする畑作が中心だった。サトウキビ作りが盛んで製糖工場も複数あった。徳之島には琉球王国の地方行政区分である間切として、東(しぎや)間切、西目(にしめ)間切、面縄(うんのう)間切の三つがあった。慶長一四年の薩摩島津氏の琉球征伐により、与論島以北は薩摩の直轄領となり、亀津(かむぃじ)に代官所が置かれた。明治四一年になって天城村が成立したが、大正五年には徳之島の北東部の集落が東天城村として分立、今は徳之島町の一部となっている。西目間切の北部は岡前曖(わーじん)、南部は兼久(かにく)曖という行政区分に細分化され、同じく今は徳之島町に属している最北部の金見(かなみ)と手々(てぃてぃ)は、琉球王国の時代には岡前曖に属していた。手々は、石垣を積むことに勝れた技術があり、王国の首里に招かれて築城に携わった。蘇鉄を奄美大島から移植したので、その名残が金見の蘇鉄のトンネルとなっている。天城町の中央部に位置するのが、阿布木名(あぶきな)の集落だ。東部が天城で、海岸部が平土野(へとの)と呼ばれる港町だ。沖縄本島北部に辺土名という集落があるが、同じ名前だ。沖縄の恩納(おんな)と徳之島の面縄(うんのう)も、宛てている漢字が違うだけで、南島語では同じ地名だと思う。奄美大島に阿木名(あぎな)という地名があるから、徳之島の阿木名は西阿木名(にしあぎな)と呼ばせるように区別してあるし、徳之島町下久志(しもくし)は、奄美大島の久志と区別するために下(しも)をつけた。兼久に至ってはあちらこちらにある、奄美市の名瀬金久町は、奄美を大島郡として旧大隅国に編入した際に郡役所を置いた場所だ。
●徳之島一の大河が秋利神川で、ダムが間もなく完工する。徳之島の水の問題が解決するから、サトウキビの生産力も大幅に伸びる可能性が高い。今は、大きな橋が架かっているが、秋利神川は深い峡谷を海岸に刻んでおり、難所の一つだった。わざわざ谷底まで降りて行ってまた昇らなければ、瀬滝(したき)の集落から、隣の天城町の最南部に位置する西阿木名には行けなかった。船で黒糖の樽を運んだ方が、よっぽど簡単だった時代が長かったのである。秋利神川に、発電所を作ったのが、浅松啓良技師だ。徳之島出身の先駆者がネット上でリストにして公表されているので、関心のある方は、「徳之島先駆者の記録」を検索して頂きたい。六甲山や函館ロープウェイの設計者も徳之島出身の人物である。秋利神川の奥の盆地に三京(みきよう)の集落がある。三京には海が見えない場所があり、亀津に来て初めて海を見たという人に会ったことがある。那覇の識名公園は冊封使を接待する際に、琉球王国が大きいことを見せるためにわざわざ海が見えない場所に築いたというが、三京は徳之島の大きさを体験する為にはいい場所だ。昔は不便だったが、今は立派な道路が整備されて直ぐ行ける。平土野から浅間への海岸部には、風葬の跡と言われる洞穴の墓があった。阿布木名の北隣が浅間(あじやま)だ。浅間には湾屋湊がある。文久二年に西郷隆盛が流人として上陸した所だ。浅間には空港があるが、陸軍浅間飛行場とは別の場所だ。浅間の北が岡前(わーじん)だ。岡前には、海側に川津辺(こうちぶ)と塩浜(しゆうはま)の集落がある。山側は前野(めーぬ)という。西郷隆盛は岡前に寄寓していた。岡前の北が松原だ。上区(うぇーく)、西区、播州(ばんしゆう)、宝戸(ほうどぅ)に分かれる。ここには銅山があった。北側が与名間(ゆなま)だ。与名(ゆな)は細かい珊瑚が砕けた白砂だ。沖縄の与那原、与那国島の「与那」に繫がる。 (つづく)

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