「島」は「しま」である
●徳之島の山の名前のほとんどに、岳(だけ)が使われている。美名田山(やま)の場合は、井之川岳(だけ)、天城岳(だけ)等と異なり、弥生時代の農耕民の新しい島人が付けた名前だろう。古川純一『日本超古代地名解』(彩流社)は解説する(八二頁)。
沖縄本島の山は、岳が三〇で、山が四のみであるが、対馬では岳は七で、山が四二となり、佐渡島ではついに岳は〇となり、山(やま)が四一、山(さん)が六、峯が三になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。日本の中央部で後続の人種によって岳が消され山(やま)や山(さん)に変えられたのであり、岳が山より古いことを意味している。これは山と岳は日本に渡来した時期が異なっている証明である。
山の呼び方は、古い順に、峯(ね)、根(ね)、嶺(みね)、岳(だけ)、山(やま)、峯(みね)、山(さん)になる。古い峯、根は少ない。以前、『遠野物語』に関連して早池峰(はやちね)山のことを書いたが、ハヤチは疾風のことであるから、風の吹きすさぶ嶺(ね)の山(さん)という意味になる。「ね」は日光や草津、そして南アルプスの白根(しらね)山の「ね」となって残っている。細かい議論をすると、峯は尖った形状を示しているが、岳はなだらかな傾斜地の連なりを示しているのではないか。例えば、錦江湾の入口にある開聞岳(かいもんだけ)の秀麗さが岳であり、高千穂の峯(みね)となると逆矛(さかほこ)が立てられているかのように尖って屹立する山のことである。霧島(きりしま)山はアイヌ語で山のことをキリ、シリなどとも言い、シマとは石のことだから、火山岩の山を形容しているに違いない。なるほど、日本国中に霧や桐の字をもつ山や峠がある。徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」と言うが、「みに」は峯に繫がる。一説に、岳は西アジアのウル語のダカンから来ているとあり、語源がペルシアにあるとも説く。
天城町西阿木名には阿木名泊(とまり)があった。泊とは湊のことだ。沖縄本島那覇の港は泊港である。南の島の地名と北のアイヌ語に、湊を泊とする共通性が認められる。フクロウを北のアイヌ語でも南の島でも、共通してチクフと呼んできたことは、既に証明した。
●山と相対している言葉が島である。「し」は衆であり、人である。薩摩の串木野辺りでは、島の人々のことを、シメンシと呼んでいた。「ま」はトポスであり、何処という意味で、沖縄では、どこから来たのか、「マーからチャンが」と尋ねるが、クゥオ・バ・ディス・ドミネ、と言うような深刻な意味ではなく、マが所と場所を示しているだけのことである。島とは単に水に囲まれた陸地のことではない。県庁所在地の福島や鹿児島は島がついている地名であるが、鹿児島の場合のカゴは、世界一の菱刈金山や、鹿児島市の南にある谷山の錫山の例を引いて、鉱山と関連する地名であると指摘した。勿論、ヤクザの世界でのシマは端的に場所のことを示している。長野の上高地に行く松本電鉄の終点に島々(しましま)という駅がある。この地名はアイヌ語の石と場所という意味が合わさっているとの説がある。群馬の四万(しま)、四万温泉、高知の四万十川、伊勢志摩の「しま」もアイヌ語を語源としているに違いない。
●ある尊敬する作家が築地の明石町に居住しておられる。事務所の本棚に群書類従が並べられ、博識に圧倒されるのだが、雑談をしている間に、島の話になった。島(しま)を島(とう)と呼んでいる間は、どこかよそよそしさがあって、日本人の土着の度合いと関連しているかも知れないとの話になった。確かに、南島(なんとう)論と言えば、東京のインテリの流行(はやり)の袢(はん)纏(てん)、浅薄な議論でしかない。なるほど、日本海の島でも、隠岐の島(しま)であり、佐渡ヶ島であり、飛島であるが、北海道に行くと、渡島(おしま)はあっても、奥尻島(とう)だし、焼尻島であり、利尻、礼文も島(とう)をつけて名前にしているのではないかとの話になった。蛍の光の四番の歌詞は、千島のおくも おきなわも やしまのうちの まもりなり とあるが、宮古島(みやこじま)、石垣島(いしがきじま)とあっても、千島(ちしま)全体はそれなりに島(しま)と親しく呼称していても、歯舞・色丹から、国後、択捉、そして北千島に至るまで、個別には島(とう)であるのは、距離感が残り、近代国家の領有権問題となったことを示している。千島の島々の名前のほとんどはアイヌ語に由来しており、ロシア側より日本列島に近かったのは明らかだ。さらに付け加えると、南島でもアイヌにも、半島(とう)という認識はなかったのではないのか。沖縄で今では勝連半島などと呼称している地域があるが、極めて新しい時代に名付けたもので、岬や崎はあっても、半島という定義は、南方同胞にも北方同胞のアイヌにもなく、島(しま)の観念があっただけなのではないか。しかも、ロシアでは樺太が島なのか半島なのか知る関心もなかったのではないのか。だから、間宮林蔵が韃靼海峡の瀬戸を探検して「間宮の瀬戸」を確認、樺太が島(しま)であることが明確になり、樺太島(とう)と千島との交換が日露間で平和裏に成立したのではないか。
●今年の八月八日に発せられた、天皇陛下の「おことば」の中で、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と仰せになられている。辺地や離島(りとう)などではなく、万民を分け隔てなく、はっきりと島々(しまじま)と定義されておられる。(つづく)
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