構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2016年11月

Kuroshio 170

大隅半島紀行 2

●塚崎の大楠は、塚崎古墳群一号墳(円墳)の上に植わっている。日本最大の蒲生の大楠、同じ大隅半島の志布志山宮神社の大楠(天智天皇のお手植えとの言い伝えがある)に次ぐ巨木で、昭和十五年に国の天然記念物に指定されている。薩摩半島の川辺の大楠は、国指定の天然記念物だったが、落雷で上半分が損傷を受け県指定の天然記念物となった。塚崎の大楠と、南大隅町根占の雄川の河口近くの塩入橋の北岸にある南蛮船係留の大楠を実見したが、大隅半島の太平洋側の旧内之浦町南方小田集落の、熊襲親征のため大隅半島に上陸された景行天皇の杖が大木になったとの伝説がある小田の大楠と、志布志の大楠は、最終目的地となった佐多岬に行く方角と異なり、立ち寄れなかった。塚崎の大楠は、平成一九年からの樹勢回復工事で不要な寄生植物が取り除かれ、周囲には歩行橋が設けられて根が踏まれる事のないようにしてある。木の根元には小さな祠と鳥居があり、そこに昇る階段も取り付けられている。楠の木の葉の下陰には芳香が漂っている。蒲生の大楠よりも保存の施設が行き届いていると、同行した日高君は指摘していた。塚崎の徳ヶ崎辰矢氏の畑下に、鹿児島県で初めて弥生時代の住居跡が発掘されたのは、昭和二四年だ。磨製の完全な石鏃や弥生式土器の破片が出土した。昭和三三年にも近くに弥生時代の住居跡が発掘され、塚崎が古墳時代を遡る大昔から、人の住む土地であったことを証明している。
●肝付町宮下(みやげ)にある宮富小学校の西隣にある桜迫神社は、神武天皇生育の地との伝承があり、近くの富山は遊行の地であるとされる。桜迫神社は、神武天皇の父鸕鵜葺不合命が亡くなったとされる西洲宮跡伝承地で、神社から南西方向の叢中に神代聖蹟西洲宮(にしのくにのみや)と刻まれた石碑が建っている。宮下は、宮気、宮宅の字が用いられたことがあり屯倉、三宅とも書かれたと伝える。屯倉とは朝廷の直轄領としての屯田に置かれた倉又は官舎のことであり、御宅、正倉、屯家、三宅、三家等の字を当てることもある。屯倉跡の石碑も肝属(きもつき)川沿いの畑に建てられている。近くに船着き場があって肝属川の水運を利用下に違いない。付近の小字名は、宮上、宮田、宮前、若宮田等と、宮とゆかりのある名前が多い。神武天皇は、鵜草葺不合命の第四王子として宮下の水神棚で誕生され、その胎盤が宮下の「イヤ塚」に埋められたと伝える。桜迫神社の鳥居の脇に、仁王像が残るが、もとは宮下にあった真福寺の門前にあったものが、廃仏毀釈で打ち捨てられて、後年発掘されたものである。ちなみに、薩摩藩では、廃仏毀釈は、明治の新政府が成立する以前からはじまっていた。薩摩藩には、文化三年(一八○六)十九巻の『薩藩名勝志』が出版され、歴史ある寺社が多数存在していたことが記録されているが、廃仏毀釈で一○六六の全ての寺がひとつ残らず廃され、僧二九六四人が還俗させられている。寺の石高が一五一一八石で、敷地や田畑、山林などは税金が免除され、堂宇の修繕や祭事などで毎年大きな支出となり、薩摩藩全体の寺院関係支出は十万余石であったから、幕末に薩摩藩は八七万石の大藩となったが、財政に占める寺院関連支出を節約して藩の財政改善を図ろうとしたのだ。藩主島津久光に廃寺の建言がなされた慶応元年(一八六五)に、毀鐘鋳砲(きしようちゆうほう)の勅諚を発出して三年後の安政五年(一八五八)の夏に、島津斉彬は大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めている。最近、鹿児島銀行本店の文化財としての名建築を惜しげもなく破壊しているが、薩摩藩は経済合理性を優先して文化と伝統を破壊することに無頓着であった、その習いが今も残っているのか。●肝属川が海に注ぐ波見の浦から、神武天皇は旧三月十日に大和に船出した。波見は倭寇の時代の根拠地の、油津、山川、鹿児島、波留、泊、久志、頴娃、根占、川内と並ぶ。伊能忠敬は、文化七年旧五月八日に波見に上陸して内之浦まで測量して引き返し、鹿屋から佐多岬を回って内之浦経由で波見に戻り、波見から錦江湾に出て薩摩の御城下に入っている。波見は栄え、文化一四年(一八一七年)の諸国大福帳(長者番付)には、関脇に大隅波見政右衛門の名があり、全国二二八人の長者のひとりに数えられている。波見の浦の絶景を、歌人の斎藤茂吉は、大隅の高隈山に雲いつつ ひむがし風は海吹きやまず 柏原の橋を渡りて相むかう 波見の港の古へおもはゆ と詠んでいる。●肝属川の河口近くの牟礼権現山(標高約三二○メートル)の九合目に約六〇〇年の樹齢を数えるヤクタネゴヨウマツの名木が聳えていたが、昭和四六年七月十九日の落雷で折れて、鹿児島県の文化財指定を解除されている。当時は日本一の五葉松で、樹高は三五メートルにも達していた。屋久島、種子島の特産種で、日本産の五葉松のうち最も大きくなる松の種類である。銘木の名残として製材して記念の衝立として残したが、衝立が飾られている旧高山町役場の道路を隔てた大田精氏の庭に、樹齢一○○年を越える二世の松が奇しき縁で植わっている。波見の民家にも樹形の整った五葉松二世が幸いに残っているとのことだ。(つづく)

Kuroshio 169

大隅半島紀行

●大隅半島への小旅行を敢行した。大隅国が、日本国家の成立と深く関わっているに違いないと、隼人の故地である霧島市隼人町にある鹿児島神宮を初めて参拝した時から気になっていて、いつかは大隅半島中を巡りたいと思っていた。八世紀初めに律令国家が成立するが、隼人が反乱を起こして、日向国は、日向、薩摩、大隅に三分割されていく。余談であるが、種子島と屋久島の二つの島と口永良部島が大宝二年(七○二年)に多禰嶋(たねのしま)の一国となり、種子島の北部が能満郡、南部に熊毛郡が設けられ国司も任じられたが、後に大隅国が七一三年に成立して、天長元年 (八二四年)に多禰国は廃止され、大隅国に編入されたことを書き留めておきたい。それは、多禰国こそが最南端の律令国家の国であり、薩摩や大隅よりも古い歴史を持つことを記憶するためである。隼人の住む大隅や薩摩の半島地域は、南北の律令国家の国に挟まれ、征隼人将軍が任命されて派遣されて結局は隼人は律令国家に組み込まれていった。九州には九国三嶋が置かれ太宰府の支配下に組み込まれた。ちなみに種子島には、旧石器時代の遺跡、九州には見つかっていない古い時代の遺跡もある。また、国の史跡となっている広田遺跡があり、出土品は国の重要文化財である。種子島と太宰府との往来は海路で確保され、島々は栄えていたのである。天武天皇八年(六七九年)に朝廷は種子島に使者を派遣して調査しているが、二年後に帰朝した使者は「多禰人は短髪で、草で作った裳を着ており、粳の(うるち)稲が豊富で、二期作であり、産物は支子(くちなし)・莞子(がま)や海産物も多い。」と報告している。蒲は藺(ゐ)のことだが、十島藺草が最も高級な畳表であることは今でも知られている。
●高校で同級生だった日高雄一君は、大阪の設備会社で働いていたが退職して、今は霧島市隼人町に住んでいる。今回は車を貸すのみならず、運転手もしてくれることになって二人旅となった。大隅半島東串良町にある唐仁古墳群と肝付町の塚崎古墳群に行き、そこから九州最南端の佐多岬を目指すことにした。大崎町の横瀬古墳群には行けなかった。唐仁古墳群は鹿児島県最大の古墳群で、肝付川下流の左岸に一四〇基以上の古墳が点在する。宮崎の西都原古墳群、肝付町の塚崎古墳群、大崎町の横瀬古墳群につながる。唐仁古墳群のうち大塚古墳が最大で、全長一八五メートル、高さが十一メートルの前方後円墳である。古墳をご神体として大塚神社が鎮座している。神社正面の階段は、小さな石を積んだもので歩幅が小さく、苔むしているので滑りやすく、雨の中を上り下りするのは危険なほどであった。国東半島でみた小石を積み上げて参道を作ったようにも見えた。ちゃんとブロック積みの脇道が作ってあったので、帰り道はその楽な方を通った。国の史跡にしては保全が悪く案内板もなく、昭和九年に国の史跡になっているから翌年に建てられた石碑が町外れに建っているだけで、古墳の全貌を知ることはできなかった。あいにく日曜日で東串良町の役場も休みで、色々尋ね回ることもできなかった。塚崎古墳群は、肝付町にあり、五基の前方後円墳と三九基の円墳がある。最大の古墳は前方後円墳の花牟礼(はなむれ)古墳で、長さが約八○メートル、高さ約十メートルである。日本最南端にある前方後円墳である。古墳群内に肝付町立歴史民俗資料館があり、展示物がちゃんとしている。例えば、須恵器で、現在の愛媛県伊予市で焼かれたものや、現在の大阪府堺市で焼かれたものが出土品として展示されており、五世紀前半から交流があったことを示している。塚崎古墳群の墳丘配置図も配布され、また、全貌を示す航空写真もあった。資料館の方の説明では、今でも人骨が至るところで発掘されるから、古墳築造の以前の弥生時代から、墓地の気配があるとのことだった。河岸の段丘の縁の近くに築造されていることは、霞ヶ浦の舟形古墳なども同様である。資料館で見た興味深い資料は、副葬品としての鉄の鏃(やじり)であった。鉄器を製造することと、古墳という大土木工事を可能にすることとが、どこかで繋がっている。鉄の原料として褐鉄鉱の固まりである高師小僧が、近辺に産するかどうかは分からなかったが、古墳の時代に至って鍛冶炉が作られ鉄器が普及したのであるから、志布志の湾に注ぐ河川の蘆原で、製鉄原料が採集されていたに違いないと想像する。最近まで、町や村の鍛冶屋さんが鉄を溶かして細工をしていたのだから、資料館の一階の出口には、近年廃業したと思われる鍛冶屋のふいごが展示されていた。
●資料館に、勝海舟の書が無造作に置かれていたのには驚いた。「終日虚心待鳳来」の揮毫が表装されている。松方正義が鹿児島市の大久保利貞に宛てた書状もあった。海舟の書に加え、西郷南洲の書も二幅あった。琉球国の氏族、名護親方を務めた程順則(ていじゆんそく)の流麗な筆跡も展示されていることには驚かされる。程順則は、琉球最初の公的教育機関としての明倫堂の創設を建議し、後に日本各地の寺子屋に普及する六諭衍義(りくゆえんぎ)を清から琉球に持ってきた人物である。ここにも、黒潮の民の往来交流の痕跡が色濃く残る。(つづく)

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

興味深いリンク