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Kuroshio 169

大隅半島紀行

●大隅半島への小旅行を敢行した。大隅国が、日本国家の成立と深く関わっているに違いないと、隼人の故地である霧島市隼人町にある鹿児島神宮を初めて参拝した時から気になっていて、いつかは大隅半島中を巡りたいと思っていた。八世紀初めに律令国家が成立するが、隼人が反乱を起こして、日向国は、日向、薩摩、大隅に三分割されていく。余談であるが、種子島と屋久島の二つの島と口永良部島が大宝二年(七○二年)に多禰嶋(たねのしま)の一国となり、種子島の北部が能満郡、南部に熊毛郡が設けられ国司も任じられたが、後に大隅国が七一三年に成立して、天長元年 (八二四年)に多禰国は廃止され、大隅国に編入されたことを書き留めておきたい。それは、多禰国こそが最南端の律令国家の国であり、薩摩や大隅よりも古い歴史を持つことを記憶するためである。隼人の住む大隅や薩摩の半島地域は、南北の律令国家の国に挟まれ、征隼人将軍が任命されて派遣されて結局は隼人は律令国家に組み込まれていった。九州には九国三嶋が置かれ太宰府の支配下に組み込まれた。ちなみに種子島には、旧石器時代の遺跡、九州には見つかっていない古い時代の遺跡もある。また、国の史跡となっている広田遺跡があり、出土品は国の重要文化財である。種子島と太宰府との往来は海路で確保され、島々は栄えていたのである。天武天皇八年(六七九年)に朝廷は種子島に使者を派遣して調査しているが、二年後に帰朝した使者は「多禰人は短髪で、草で作った裳を着ており、粳の(うるち)稲が豊富で、二期作であり、産物は支子(くちなし)・莞子(がま)や海産物も多い。」と報告している。蒲は藺(ゐ)のことだが、十島藺草が最も高級な畳表であることは今でも知られている。
●高校で同級生だった日高雄一君は、大阪の設備会社で働いていたが退職して、今は霧島市隼人町に住んでいる。今回は車を貸すのみならず、運転手もしてくれることになって二人旅となった。大隅半島東串良町にある唐仁古墳群と肝付町の塚崎古墳群に行き、そこから九州最南端の佐多岬を目指すことにした。大崎町の横瀬古墳群には行けなかった。唐仁古墳群は鹿児島県最大の古墳群で、肝付川下流の左岸に一四〇基以上の古墳が点在する。宮崎の西都原古墳群、肝付町の塚崎古墳群、大崎町の横瀬古墳群につながる。唐仁古墳群のうち大塚古墳が最大で、全長一八五メートル、高さが十一メートルの前方後円墳である。古墳をご神体として大塚神社が鎮座している。神社正面の階段は、小さな石を積んだもので歩幅が小さく、苔むしているので滑りやすく、雨の中を上り下りするのは危険なほどであった。国東半島でみた小石を積み上げて参道を作ったようにも見えた。ちゃんとブロック積みの脇道が作ってあったので、帰り道はその楽な方を通った。国の史跡にしては保全が悪く案内板もなく、昭和九年に国の史跡になっているから翌年に建てられた石碑が町外れに建っているだけで、古墳の全貌を知ることはできなかった。あいにく日曜日で東串良町の役場も休みで、色々尋ね回ることもできなかった。塚崎古墳群は、肝付町にあり、五基の前方後円墳と三九基の円墳がある。最大の古墳は前方後円墳の花牟礼(はなむれ)古墳で、長さが約八○メートル、高さ約十メートルである。日本最南端にある前方後円墳である。古墳群内に肝付町立歴史民俗資料館があり、展示物がちゃんとしている。例えば、須恵器で、現在の愛媛県伊予市で焼かれたものや、現在の大阪府堺市で焼かれたものが出土品として展示されており、五世紀前半から交流があったことを示している。塚崎古墳群の墳丘配置図も配布され、また、全貌を示す航空写真もあった。資料館の方の説明では、今でも人骨が至るところで発掘されるから、古墳築造の以前の弥生時代から、墓地の気配があるとのことだった。河岸の段丘の縁の近くに築造されていることは、霞ヶ浦の舟形古墳なども同様である。資料館で見た興味深い資料は、副葬品としての鉄の鏃(やじり)であった。鉄器を製造することと、古墳という大土木工事を可能にすることとが、どこかで繋がっている。鉄の原料として褐鉄鉱の固まりである高師小僧が、近辺に産するかどうかは分からなかったが、古墳の時代に至って鍛冶炉が作られ鉄器が普及したのであるから、志布志の湾に注ぐ河川の蘆原で、製鉄原料が採集されていたに違いないと想像する。最近まで、町や村の鍛冶屋さんが鉄を溶かして細工をしていたのだから、資料館の一階の出口には、近年廃業したと思われる鍛冶屋のふいごが展示されていた。
●資料館に、勝海舟の書が無造作に置かれていたのには驚いた。「終日虚心待鳳来」の揮毫が表装されている。松方正義が鹿児島市の大久保利貞に宛てた書状もあった。海舟の書に加え、西郷南洲の書も二幅あった。琉球国の氏族、名護親方を務めた程順則(ていじゆんそく)の流麗な筆跡も展示されていることには驚かされる。程順則は、琉球最初の公的教育機関としての明倫堂の創設を建議し、後に日本各地の寺子屋に普及する六諭衍義(りくゆえんぎ)を清から琉球に持ってきた人物である。ここにも、黒潮の民の往来交流の痕跡が色濃く残る。(つづく)

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