構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« Kuroshio 169 | トップページ | Kuroshio 171 »

Kuroshio 170

大隅半島紀行 2

●塚崎の大楠は、塚崎古墳群一号墳(円墳)の上に植わっている。日本最大の蒲生の大楠、同じ大隅半島の志布志山宮神社の大楠(天智天皇のお手植えとの言い伝えがある)に次ぐ巨木で、昭和十五年に国の天然記念物に指定されている。薩摩半島の川辺の大楠は、国指定の天然記念物だったが、落雷で上半分が損傷を受け県指定の天然記念物となった。塚崎の大楠と、南大隅町根占の雄川の河口近くの塩入橋の北岸にある南蛮船係留の大楠を実見したが、大隅半島の太平洋側の旧内之浦町南方小田集落の、熊襲親征のため大隅半島に上陸された景行天皇の杖が大木になったとの伝説がある小田の大楠と、志布志の大楠は、最終目的地となった佐多岬に行く方角と異なり、立ち寄れなかった。塚崎の大楠は、平成一九年からの樹勢回復工事で不要な寄生植物が取り除かれ、周囲には歩行橋が設けられて根が踏まれる事のないようにしてある。木の根元には小さな祠と鳥居があり、そこに昇る階段も取り付けられている。楠の木の葉の下陰には芳香が漂っている。蒲生の大楠よりも保存の施設が行き届いていると、同行した日高君は指摘していた。塚崎の徳ヶ崎辰矢氏の畑下に、鹿児島県で初めて弥生時代の住居跡が発掘されたのは、昭和二四年だ。磨製の完全な石鏃や弥生式土器の破片が出土した。昭和三三年にも近くに弥生時代の住居跡が発掘され、塚崎が古墳時代を遡る大昔から、人の住む土地であったことを証明している。
●肝付町宮下(みやげ)にある宮富小学校の西隣にある桜迫神社は、神武天皇生育の地との伝承があり、近くの富山は遊行の地であるとされる。桜迫神社は、神武天皇の父鸕鵜葺不合命が亡くなったとされる西洲宮跡伝承地で、神社から南西方向の叢中に神代聖蹟西洲宮(にしのくにのみや)と刻まれた石碑が建っている。宮下は、宮気、宮宅の字が用いられたことがあり屯倉、三宅とも書かれたと伝える。屯倉とは朝廷の直轄領としての屯田に置かれた倉又は官舎のことであり、御宅、正倉、屯家、三宅、三家等の字を当てることもある。屯倉跡の石碑も肝属(きもつき)川沿いの畑に建てられている。近くに船着き場があって肝属川の水運を利用下に違いない。付近の小字名は、宮上、宮田、宮前、若宮田等と、宮とゆかりのある名前が多い。神武天皇は、鵜草葺不合命の第四王子として宮下の水神棚で誕生され、その胎盤が宮下の「イヤ塚」に埋められたと伝える。桜迫神社の鳥居の脇に、仁王像が残るが、もとは宮下にあった真福寺の門前にあったものが、廃仏毀釈で打ち捨てられて、後年発掘されたものである。ちなみに、薩摩藩では、廃仏毀釈は、明治の新政府が成立する以前からはじまっていた。薩摩藩には、文化三年(一八○六)十九巻の『薩藩名勝志』が出版され、歴史ある寺社が多数存在していたことが記録されているが、廃仏毀釈で一○六六の全ての寺がひとつ残らず廃され、僧二九六四人が還俗させられている。寺の石高が一五一一八石で、敷地や田畑、山林などは税金が免除され、堂宇の修繕や祭事などで毎年大きな支出となり、薩摩藩全体の寺院関係支出は十万余石であったから、幕末に薩摩藩は八七万石の大藩となったが、財政に占める寺院関連支出を節約して藩の財政改善を図ろうとしたのだ。藩主島津久光に廃寺の建言がなされた慶応元年(一八六五)に、毀鐘鋳砲(きしようちゆうほう)の勅諚を発出して三年後の安政五年(一八五八)の夏に、島津斉彬は大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めている。最近、鹿児島銀行本店の文化財としての名建築を惜しげもなく破壊しているが、薩摩藩は経済合理性を優先して文化と伝統を破壊することに無頓着であった、その習いが今も残っているのか。●肝属川が海に注ぐ波見の浦から、神武天皇は旧三月十日に大和に船出した。波見は倭寇の時代の根拠地の、油津、山川、鹿児島、波留、泊、久志、頴娃、根占、川内と並ぶ。伊能忠敬は、文化七年旧五月八日に波見に上陸して内之浦まで測量して引き返し、鹿屋から佐多岬を回って内之浦経由で波見に戻り、波見から錦江湾に出て薩摩の御城下に入っている。波見は栄え、文化一四年(一八一七年)の諸国大福帳(長者番付)には、関脇に大隅波見政右衛門の名があり、全国二二八人の長者のひとりに数えられている。波見の浦の絶景を、歌人の斎藤茂吉は、大隅の高隈山に雲いつつ ひむがし風は海吹きやまず 柏原の橋を渡りて相むかう 波見の港の古へおもはゆ と詠んでいる。●肝属川の河口近くの牟礼権現山(標高約三二○メートル)の九合目に約六〇〇年の樹齢を数えるヤクタネゴヨウマツの名木が聳えていたが、昭和四六年七月十九日の落雷で折れて、鹿児島県の文化財指定を解除されている。当時は日本一の五葉松で、樹高は三五メートルにも達していた。屋久島、種子島の特産種で、日本産の五葉松のうち最も大きくなる松の種類である。銘木の名残として製材して記念の衝立として残したが、衝立が飾られている旧高山町役場の道路を隔てた大田精氏の庭に、樹齢一○○年を越える二世の松が奇しき縁で植わっている。波見の民家にも樹形の整った五葉松二世が幸いに残っているとのことだ。(つづく)

« Kuroshio 169 | トップページ | Kuroshio 171 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: Kuroshio 170:

« Kuroshio 169 | トップページ | Kuroshio 171 »

2022年2月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          

興味深いリンク