構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年12月

Kuroshio 172

大隅半島紀行 4

●佐多岬への道路は、山が海に迫り、コンクリートの庇がついた巾の狭い道路が延々と続き、改良工事中の所も多かった。佐多岬の太平洋側の大泊にある小中学校は閉校になっていた。ホテルの従業員は、民間委託の経営がまもなく解消されて元の町営に戻るらしく、「ここは猿と老人ばかりばかりだ」との捨て台詞で、ホテルの屋上階にある浴場も眺望は絶景であったが、温度管理が杜撰ですっかり人心が荒(すさ)んでいるように思われた。もうひとりの従業員は、片道一時間半も運転して通勤していると初見の客に愚痴る程だから、立派な建物で壁に掛かる油絵も相当の水準の宿泊施設であるだけに、心が傷むことだった。北海道の宗谷岬から自転車を漕いでくる若者が結構いるらしく、達成感を誇らしげに記録した記念の旗や幕がいくつも掲げられているのは救いだった。ホテルから佐多岬への道は山越えの道があり、台風で通行困難になっていると表示していたが、ホテルの従業員は、町役場から連絡がないので知らないとの無愛想であった。迂回路を通って佐多岬の先端の灯台を目指した。展望台が新築中で、辺りの駐車場に車を停めて徒歩になった。叢林の中にある御崎神社を過ぎ、両側が絶壁の尾根道を歩き、あと少しで灯台に辿り着くところで、通行禁止となった。
●風は、太平洋側から、東から西に吹いて、太平洋側にはうねりが残り白波が見え、貨物船がピッチングを繰り返していた。岬の西側の錦江湾側は、海が静かで、漁船が全速力で白波を蹴立てて、山川か枕崎への帰港を急いでいた。尾根道の、風が落ちた側の絶壁に無数の蜻蛉(トンボ)が乱舞する光景をみたのはその時である。ユスリカが霞のようになって川面を覆う光景は珍しくないが、視界を遮るほどの、無数の数の蜻蛉が滑空しながら風に乗って飛ぶのを見たのは初めての不思議な光景であった。その蜻蛉は薄翅黄(うすばき)トンボではないかとの指摘が茨城県の方からあって、調べてみると、日本だけではなく世界の熱帯亜熱帯に生息していて、毎年毎年、熱帯・亜熱帯から日本列島に大移動をしてくるとのことで、北は、カムチャッカでも目撃されているとのことである。驚異的な繁殖力があり、たった一ヶ月で卵から成虫になることで、移動途中に世代交代を繰り返しているとのことだ。しかも渡り鳥のように、日本列島に渡ってきても、寒い冬を避けて南の故地にもどることはなく、「ただ死ぬ為だけに北へ北へと飛行する不思議なトンボである。」とのことだ。佐多岬の突端近くで見た蜻蛉の翅の色は、鮮やかなあかね色ではなく、むしろ直衣直垂の鈍い緑色に近かったから、まずは赤とんぼではなく、薄翅黄トンボに間違いないようだ。記紀に秋津島というが、トンボの形からくるのではなく、南方から飛来するトンボが無数に生息する、大日本の列島の連なりだから、大八洲を秋津島と呼んだのではないかと新説?を提案したい気分になった。ホテルの近辺の山あいの空を、サシバのつがいが我が物顔でくるくる舞っていた。佐多岬は、南からの渡り鳥が初めて翅を休める岬だ。冬を凌ぐためにこれから南方に飛び立つ鳥にとっては、最後のえさ場でもあろう。佐多岬の森は、蜻蛉にとっても、渡り鳥のサシバにとっても、海を渡る蝶のアサギマダラにとっても、豊饒の森である。
●佐多岬の御崎神社には由来がある。慶長一四年(一六◯九)、琉球出兵の時に、薩摩の総大将樺山権左衛門久高が渡海の前に祈願し、後に琉球国鎮護として、和銅元年三月三日に神託があり同年六月に創建された御崎三所権現を、火尾集落から遷して再建したとのことだ。周辺に繁茂する蘇鉄は、琉球から持ち帰ったものである。御崎神社は、約二十キロ離れた近津宮神社と姉妹の関係があり、二月の例祭には、神輿は田尻、大泊、外之浦、間泊、竹之浦、古里、坂元の大隅半島の七浦を巡幸するという。ちなみに、台湾の初代総督になった樺山資紀は、樺山久高の血族ではないが、樺山家を相続した人物であり、戦後占領政治の中で活躍した白洲次郎夫人の白洲正子は、長男で貴族院議員であった樺山愛輔の次女だ。琉球征伐と台湾出兵とが、どこか見えない赤糸で繋がっているようだ。
●ホテルで休憩した後、沈む夕日を眺める為に、錦江湾側にある島泊の集落に車を走らせた。漁港は、高い高いコンクリートの堤防が作られて、その堤防の壁の向こうには、テトラポットが積み上げられていた。鉄の梯子がかけられていたから、高所恐怖症気味であっても何とかよじ登れた。開聞岳が夕日の中に、薩摩富士のシルエットを描いた。水平線に、硫黄島などの三島が薄い島影を見せていた。水平線にはまだ厚い黒雲があったせいか、沈む夕日に光芒を放つ威勢はなかった。眈々と日が暮れた。港に釣り船が帰ってきて、漁師は何匹かの魚を岸壁にほおり投げた。夕闇迫る海岸線の奥の、昔は分限者が住んでいた瓦屋根の家に電灯が灯った。人が住んでいることは間違いないのだが、老婆をひとり見かけただけで、犬猫の気配すらなかった。大泊のホテルに帰って夕食をとったが、大阪から来た観光客夫婦ひと組と当方二人が寂しく宿泊していた。(つづく)

Kuroshio 171

大隅半島紀行 3

●吾 平 山 上 陵を参拝することも大 あひらのやまのえのみささぎ 隅半島の旅の目的であった。可愛山陵、 え の み さ さ ぎ 高 屋 山 上 陵と共に神代三山陵のひ たかやのやまのえのみささぎ と つ で あ る 。 吾 平 山 上 陵 は、 彦波瀲武鵜茅草葺不合尊と玉依姫の陵 ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと とされる。鹿屋市吾平町上名の鵜戸山 を流れる姶良川に沿ってある岩窟の 「 鵜戸窟 」 内にあるふたつの塚を、明治 うどのいわや 七年に陵として治定している。明治五 年、明治天皇は鹿児島に初めて行幸さ れたが、維新の立役者西郷隆盛が陪席 して、遙拝されたのがこの吾平山上陵 であった。同時に遙拝した高屋山上陵 は、空港近くの溝辺町にある明治七年 に治定された陵ではなかった。大隅半 島の山塊のひとつ国見山の高屋神社を 高屋山上陵に比定して遙拝されたのは 興味深い。吾平山上陵についても、治 定後も異論がなお残り、明治政府は、 明治二九年、日南市の鵜戸神宮の背後 の速日峯山上にある古墳を鵜戸陵墓参 考地としている。鹿屋市の吾平山上陵 は小伊勢と呼ばれて、昭和天皇、皇太 子時代の今上天皇皇后両陛下が参拝さ れている。神霊の気配を感じる風光明 媚の地で、姶良川の錦鯉が泳ぐ清冽な 流に禊ぎができる。宮内庁書陵部が管 理しており、臨時雇用の作業員が倒木 や枯れ草の除去を丁寧にしていた。そ
の昔は山陵の東側に鵜戸六社権現の社 があったが、旧吾平町の役場の南隣に 遷座して、鵜戸神社となって賑わって いる。六社とは、彦波瀲武鵜茅草葺不 合尊とその姨で妃の玉依姫、その間の おば 子、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、 ひこいつせ いないい み け い り の 神 武 天 皇の四王子を祀るからである。 かんやまといわれひこ ●陵は 「 西洲宮に 崩 りましぬ。より かむあが て日向の吾平山上陵に葬りまつる 」 (日本書紀)とあり、延喜式に「日向 国に在って、陵戸(陵を世襲で守る 人)はない」とある。姶良川を下れば 肝属川に合流するから、神武天皇が幼 少の頃を過ごしたとする桜迫神社にも 近い。しかし、吾平山上陵の治定につ いても、特に宮崎県内だけでも日南市 の鵜戸山をはじめ高千穂や佐土原町、 西都市などに伝説地があり、強い反論 があった。明治二九年六月二三日には、 日南市・鵜戸神宮背後の速日峯山上を 「御陵墓伝説地吾平山上陵」と定める に至った。確かに日南市の油津は、古 くは「吾平津」と呼んでいて、のちに 「油」となまったという説もある。文 久三年、飫肥藩が油津山上に砲台を築 こうとしたところ、二ヶ所の廓室が発 見され、銅、鏡、金環、玉、太刀など が発掘された。さらに近隣には吾平津 神社(乙姫大明神)もあり、豊玉姫や
玉依姫の伝承が多く、豊玉姫は、竜宮 から海亀に乗って日南市風田の川上神 社に留まったとされ、鵜戸山北側の宮 浦神社は、玉依姫の住居跡とも伝える。 ●薩摩半島にある可愛山陵のことにつ いて書くと、可愛山陵はニニギ(天津 え の み さ さ ぎ 日高彦火瓊瓊杵尊)の陵とされ、明治 七年明治政府は、薩摩川内市宮内町境 内の神亀山を「可愛山陵」と治定して いる。新田神社と同じ敷地内にある。 吾平山上陵の場合と同様に、明治政府 は、神陵を治定したものの、それは、 維新政府内における薩摩の政治力を背 景にして鹿児島県内に定められた可能 性があるとして、特に宮崎県の関係者 から活発な反論が提出されている。日 高彦火瓊瓊杵尊」の御陵「可愛山陵」 ににぎのみこと についても同様に強硬な異論が出され、 明治政府は、明治二九年、宮崎県延岡 市北川町俵野可愛を「御陵伝承地 」 、 西都市西都原の西都原古墳群にある九 州最大の古墳である男狭穂塚を「男狭 穂塚陵墓参考地」 (可愛山陵参考地) と定めるに至った。明治一六年、可愛 山陵について、当時の宮内省職員二人 が記録した文献「日向埃山陵 」 が残存 しており、そこに「(前略)今は薩摩 国高城郡水引の宮内村八幡(川内市宮 内・新田神社)を祭る山を御陵と定め ているが、日向の人々の反論があった。 (中略) 「 可愛山陵」は神代、ニニギ ノミコトの崩御で、筑紫の日向の可愛
(可愛は埃と読む)の山陵に葬ったも え ので、 「 諸陵式」には日向国にあって、 陵戸はないとある。日向国臼杵郡長井 村俵野門に一つの古墳があって、これ が御陵に「射当」のは明らかである。 あ た る (中略)日本書紀や延喜式に見える 「可愛(え ) 」地名が明らかに存在し ていたことを示し、諸書の記述とも符 合する。 (後略) 」等と書かれている。 ●薩摩川内市を貫流する川内川の両岸 は大古墳群が展開する地域である。天 辰寺前古墳が平成二十年に発掘調査さ れただけで、他に横岡古墳、若宮古墳、 船間島古墳、安養寺丘古墳、中陵 ・ 端 陵、御釣場古墳、川合陵等がある。治 定された可愛山陵はその一つである。 ちなみに、天辰寺古墳からは、壮年女 性の人骨一体が出土しているが、イモ ガイの腕輪(左腕に一六個、右腕に二 個)を身につけ、神頭鏡一面が足下に、 鉄製刀子一口が頭上に副葬されていた。 とうすいつこう ●吾平山上陵を参拝し終えて、大隅半 島を南下して佐多岬へ急いだ。道路は 山の尾根道も整備されている。大隅半 島の南部は深山幽谷だから、いくつか 名爆がある。神川大滝へ立ち寄ろうと したが、台風で土砂崩れがあり通行止 だった。丘の上の展望台から、美しい コニーデ、開聞岳が錦江湾を隔てて遙 かいもんだけ かに望まれる。台地を下る道が海岸に 至り左折する。道の駅で休憩。缶コー ヒー一杯で喉を潤した。 (つづく)

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

興味深いリンク