日本最古のアコヤガイ真珠
●佐多岬から、大隅半島を錦江湾沿いに北上して、出立した国分に戻ることにしたが、柊原(くぬぎばる)貝塚に立ち寄ることも目的のひとつであった。柊原遺跡は。垂水市の市街地から南東側に五キロ離れた沖積平野と海岸線の間にある。標高は約七メートルで、今は海岸から約三百メートル離れているが、貝層が四、五メートルも積み上がった巨大な貝塚であるとされる。貝層はアコヤガイと魚骨とモクハチアオイガイからなり、特にアコヤガイとモクハチアオイガイからは、「貝の珠」が採取された可能性が指摘されている。垂水市に車が入ったところでアコウの並木が奇麗に整備されている公園があり、そこで小休止した。薩摩半島の指宿にもアコウの大木がいくつか残るが、アコウの木は、亜熱帯から移植された木で、黒潮の民の往来の証拠である。柊原は、地元では「くぬっばい」と発音するらしく火山灰の台地の上にある集落が柊原である。そこから坂を下りた所が柊原下で、錦江湾の波打ち際に沿って貝塚が出来たのだろう。教育委員会が建てた表札のある貝塚跡は水源地であり、ポンプ場があった。豊富な湧水があり、錦江湾に潜って採集したアコヤガイなどの貝肉を腐敗させた後に、珠を採集する為に洗い流す作業をした場所ではなかったかと想像する。インドやアラビア海で見られた、貝の腐敗臭や採取の不潔さを伴う過酷な労働環境は、火山灰台地を濾過槽として海岸線で噴出する湧水のためにきっと軽減されたことと思う。柊原貝塚からいくつかの真珠が発見されたと読んだことがあったので、同行の日高君にわざわざ車を教育委員会に運転して貰った。事務所の職員にアコヤガイと真珠の出土品について質問したら、つっけんどんな「行方不明だ」との応答であった。柊原貝塚から、縄文時代から弥生、古墳時代、中世に至るまでの遺構や遺物が発見されており、一部が教育委員会の建物の廊下に無造作に陳列棚に入れられ並べられている。真珠の世界史に占める柊原遺跡の位置づけを考えると、「行方不明」とは残念至極であり、世界的な遺物への地元の無頓着には慨嘆すること禁じ得なかった。アコヤガイが出土した日本の貝塚は、長崎三、鹿児島七、熊本一、愛媛一と以外に少なく、鹿児島にその数が多いことが特徴で、海人である隼人と真珠との繋がりを想像するのだ。大隅半島には、柊原の他に、佐多岬の大泊貝塚、鹿児島神宮の宮坂貝塚、桜島の武貝塚がある。武貝塚からも真珠が発見されている。宮坂貝塚は、貝層の断面が崖に露出しており、ガラス板で囲って展示されている。隼人の社の西南の一角にある。ちなみに、薩摩半島の海岸線にも貝塚は多く、錦江湾側に草野貝塚、光山貝塚があり、東支那海側に北から、江内貝塚、荘貝塚、出水貝塚、波留貝塚、麦之浦貝塚、尾賀台貝塚、市来川上貝塚、小野貝塚、阿多貝塚があるが、最後の阿多は阿多隼人の居住地だった。種子島の南端には一陣長崎鼻貝塚がある薩摩隼人とは、薩摩にいる隼人という意味であることを再度強調したいが、貝塚は海人たる隼人の居住地を示して、長崎や愛媛の貝塚からの真珠遺物にもつながる。
●桜島と大隅半島とが陸続きになったのは大正の大噴火だった。海峡を埋め尽くしたその溶岩の原を抜けて北上した。福山町は黒酢の生産で有名であるが、ドライブの休憩も兼ねて、宮浦宮に立ち寄った。「延喜式神名帳」に載る大隅国の式内社五社の一社とされる古社である。大隅半島の西の付け根の、カルデラの火口壁が錦江湾に迫る傾斜地の平坦部にあり、桜島を南に眺める。北北西に若尊鼻という岬があり、錦江湾の海底には海底火山があり、レアメタルの資源が確認されている。神武天皇が幼少期を過ごしたの故事は、都城の神武天皇の皇居の跡という場所や、高原町の狭野神社、前日に往訪した桜迫神社があるが、宮浦宮は、大隅国の都城への陸路と錦江湾の海路の接点にある。福山の黒酢も元は、琉球や南島との黒潮文明の往来の中で獲得された麹と醗酵の技術であり、焼酎醸造にもつながる。「夫婦銀杏」という大銀杏が南北に分かれて本殿前に屹立する。神武東征に際して手植えした銀杏を植え継いだと伝える。宮浦宮には硫黄の匂いが漂い、地下の火山のマグマの熱を感じることができる。
●翌日、草野貝塚から発掘された日本最古のアコヤガイ真珠を、鹿児島市ふるさと歴史館で拝観した。写真に収められないかと思い、何と早朝七時半に学芸員に面会し、許可を得て撮影したのが右の写真である。 (つづく)
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