薩摩と大隅の違い
●霧島市に郷土研究会があって、「曽の隼人」を平成二五年に出版している。大隅国一、三○○年を迎えて、と副題がついている。その十五ページに南九州の古墳分布図が掲載されている。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、特別展示図録「隼人」1992を一部改変した図表だ。南九州の熊本県側には、地下式板石積石室墓があり、宮崎県南部から大隅半島にかけては地下式横穴墓があり、熊本。鹿児島、宮崎の三県の境にあり、霧島山塊の麓の、えびの市や小林市あたりで混在している。
薩摩半島の川内川の南と、錦江湾沿いには、指宿と山川の遺跡を除いては、石室墓は見当たらない。薩摩と大隅との間に微妙な葬制の違いがあり、石室墓がそもそもない隼人を加えると三類型になる。霧島市は、鹿児島気象台の天気予報では、薩摩地方に分類され、醸造酢で有名な福山町も薩摩地方となっているが、誤りだ。大隅地方とするか、せめて錦江湾の奧、湾奧地方とでも名付けるべきだ。肥薩線に、大隅横川駅の名が残り、大隅国の版図は明確だ。山ヶ野金山が薩摩国と大隅国の大隅側の国境の町であったことはよく知られている。国分の亀の甲遺跡は大隅国司の墓で、鉄製の大刀が六本発見されている。鹿児島神宮は、国分平野の西側にあり、東側には、韓国宇豆峯神社があり、この二社を二等辺三角形とする頂点に、霧島連山の韓国岳が聳えている。続日本紀によれば、豊前国から、半島出自の渡来人を移住させたとある。大和朝廷は、隼人の統治の困難を移民で補ったかのようである。分布図を眺めていると、亀ノ甲遺跡は、霧島連山のひとつ、天孫降臨のあった高千穂峰を真北にして背負うかのように築造されている。分布図の西端にある甑島にも古墳時代の高塚や石室墓はない。海民である隼人の文化の圏内にある。下甑島にある和田家が大隅半島の和田家に繋がりがあるとの話を最近耳にしたが、柳田國男を大隅半島の旅へと誘って案内したのが、垂水出身の洋画家の和田英作で、錦江湾沿いの土地の垂水、柊原遺跡や佐多岬と甑島との距離感が一挙に縮まることを感じた。
●柳田國男は大正八年に貴族院書記官長の官職を退いている(昭和二一年七月十二日から、新憲法が発布される前日の翌年の五月二日まで枢密顧問官を務めている)。上司である徳川家達貴族院議長との軋轢が原因とされるが、柳田は折口信夫に対してもそうであったが、男色の気を激しく嫌い、議長の鶏姦癖を咎めたとの説もある。翌大正九年に朝日新聞社に入社して、日本全国の旅を始めている。同年八月から九月の東北への旅は、「雪国の春」という紀行文になった。十二月からは九州、奄美、沖縄への三ヶ月の旅に出発して、後に「海南小記」として出版している。十二月二九日は鹿児島の明治館に宿泊していた。正月を佐多岬に行って迎えると、東京の家族に葉書をしたためている。志布志を出て、大隅半島の錦江湾側の高須から船で鹿児島に渡り、そこから大隅半島に引き返して大根占から陸路佐多岬に向かっている。佐多岬の田尻という集落で大正十年の正月を迎え、「海南小記」には次のように書いている。田尻の除夜は波の音ばかりであった。戸を立てぬ縁側から月がさして、障子の紙が震えるほどの微風が吹く。時計を見ると、今まさに歳が替ろうとしていた。その後、柳田は鹿児島から奄美・沖縄に渡った。帰京したのは、大正十年の三月で、五月初旬には、新渡戸稲造の推輓を得て、国際連盟委任統治委員としてスイスに赴く。柳田の奄美・沖縄熱に啓発されて、折口信夫が沖縄に単身渡ったのが、その年の十月だった。娘の堀三千は、「父との散歩」(人文書院、一九八○)に、柳田の奄美・沖縄熱について、「八重山」という美しいひびきを、私たちは幼い頃から耳にしていた。南の島、遙かな美しいところとして、印象づけられていたのである、と表現する。
●前掲の古墳分布図の空白部分の南に、南北千二百キロにも及ぶ「美しいところ」がある。南西諸島は、奄美・沖縄を中部として、種子・屋久とトカラ列島からなる北部、宮古・八重山、与那国や尖閣からなる南部の三つのまとまりに大別される。隼人と南の島の習俗は産土など多く共通する。奄美や沖縄では最近まで、再葬、つまり洗骨の儀礼が残っていたが、仏教伝来以前にも、小さな人骨を装身具などと一緒に焼く習俗が既に存在しており、隼人の世界と共通する。火葬が八世紀からの外国仏教僧による葬礼だけではないことを、特段指摘しておきたい。(つづく)
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