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2017年3月

Kuroshio 177

花の窟で乱舞するアサギマダラ

●熊野の海岸には奇岩奇勝が連なる。鬼ヶ城という海岸もある。熊野川を渡り、国道を北上するバスの窓からは、天然の狛犬である獅子岩が見える。巨岩の山塊が七里御浜海岸に突き出しているのが花(はな)の窟だ(いわや)。花の窟は熊野三山
の親神だと言われ、日本最古の神社ともされる。火の神・軻遇突智(かぐつち)を生み、産褥熱で亡くなった伊弉冉尊(いざなみのみこと)を鎮める陵が花の窟とされるからである。巨岩を御神体とする社殿のない古社である。お綱掛け神事は、稲藁で編んだ一八〇メートルの綱七本を一つに束ねて「お綱」として、高さ五〇メートルの御神体の厳の頂上から引っ張って、季節の花々をお綱の幡旗(ばんき)に飾る。大注連縄(しめなわ)を、境内を越え国道を跨いで海岸の波打際まで引っ張って行くが、この「お綱」がさながら神々の領域の結界を示し、現世と海の彼方の常世とを繋いでいるかのようだ。一本一本では弱い稲藁が合わさって撚られると強度が上がり、注連縄になっていくことを、黒潮の民は知っている。その大綱を季節の変わり目毎に花で飾り、農耕儀礼の原初の姿を思い出して保ち続けるのだ。筆者は潜って見た訳ではないが、花の窟の一キロ沖に、陸の窟と同じような巨岩が海中に聳えているという。海と山とを繋ぐ「お綱」だとの説明はいよいよ説得力が増す。七里御浜の海岸に出て波打際を歩くと、玉砂利の海岸で、カチカチと乾いた足音が響く。那智黒という碁石にするような濡れ羽色の黒い石が見つかることもある。固い灰色の丸石の玉砂利の海岸である。神武天皇が東征に出立したと言い伝える日向の美々津海岸が大きな玉石の海岸だったことを思い出す。白い砂浜が延々と続くわけではなく、波に濡れた砂が裸足にまつわりつくこともない。
●熊野の海岸から内陸に入り、熊野川の支流の一つである北山川沿いの紀和町に、日本有数の銅山があった。奈良の大仏もその銅山からの銅で鋳造されたとの記録がある。昭和五三年に閉山するまで、無数の坑道が掘られた。坑道の中を走っていたトロッコ電車が、鉱山資料館前に展示されている。坑道から湧出した温泉が第3セクターの宿泊施設に引かれ、入鹿温泉と湯ノ口温泉となっている。観光客の為に両温泉の間を一〇分かけて今もトロッコ電車が走っている。紀和町の丸山地区には千枚田があり、山を駆け登るように稲作をした黒潮の民の開拓の所為を見ることができる。紀和町では、日本固有の鳥である雉の養殖をしているのは珍しい。旧紀和町の事業を引き継いで熊野ふるさと振興公社が日本雉を狩猟用に、高麗雉を食肉用に養殖している。雉肉は家禽としての鶏の肉よりも歴史は古い。流行のジビエの部類であっても、低カロリーの高タンパク質でさっぱりした美味である。天武天皇や聖武天皇の時代から、鶏は食肉禁止令の対象になったが、雉肉はむしろ狩猟の対象であったから、諏訪大社の鹿肉と同じように、絶対的な禁忌(タブー)にはならなかった。雉は、むしろ、カスピ海沿岸以東のアジア大陸から朝鮮半島を経て日本列島に至る広がりのある、ユーラシア大陸を舞台とする鳥である。雉は北海道には元々いない。台湾の山岳には帝雉(みかどきじ)がいるが、対馬や南西諸島の島々にはいない。丸山千枚田の棚田と力を合わせ、雉が海と山のふるさと振興を担っているのは面白い。「焼け野の雉子(きぎす)、夜の鶴」と言うのも宜なるかなである。日本列島のあちこちで優雅に舞っていた鶴が薩摩の出水や阿久根に飛来するばかりに減ってしまった。根釧原野の丹頂鶴も数は少ない。シベリアの環境保全をして、雉や鶴の鳥類の往来を助け、ロシアが北方領土を返還する気運を醸成をしてはどうか。
●花の窟の神社への参道の入口にタブノキが植わっていた。那智の滝を遠望するタブノキのような巨木ではないが、参道の入口に植わっているのは、津波等の災いを門前のタブノキで花の窟を守ろうとした気配を感じる。
●花の窟の巨岩の下にアサギマダラという蝶々が数匹ひらりひらりと舞っているのを見た。一〇月下旬だったから、そのアサギマダラは日本列島から南方に向けて旅立つ準備をしていたに違いない。夏に日本本土で発生したアサギマダラの多くの個体が秋になると南西諸島や台湾まで南下することが判明している。直線距離で一五〇〇キロ以上移動したり、一日当たり二〇〇キロ以上の速さで移動する例もある。大分県の国東半島の沖の姫島にはアサギマダラが集まり乱舞する場所があるという。毎年五月初旬から六月初めに南方から飛来して、姫島北部のみつけ海岸に自生するスナビキソウの群生地に何千という蝶々が集まる。五日から六日の間姫島に滞在し、さらに北に向かって列島各地に飛び立つ。信州の八ヶ岳にはアサギマダラが夏の間に繁殖する場所がある。同じ個体が渡りをする鳥とは異なり、この蝶は日本列島で世代交代して、新しい世代が南西諸島や台湾に向かって飛び立ち、また南方で世代を交代して、北の日本列島に飛び立つ渡りを繰り返す習性のようだ。神武東征の経路は、国東半島と熊野経由のアサギマダラの北帰行をなぞっているのではないかと、花の窟で出立準備をする蝶々を見てふと思った。(つづく)

Kuroshio 176

再びの熊野詣で

●錦江湾の奥に、姶良(あいら)市と姶良郡がある。姶良は古くは始羅(しら)と表記され、新羅が語源だ。姶羅(あいら)郡と混同されるが、大隅国「姶羅郡」は現在の鹿屋(かのや)市付近を指し、中世までに肝属(きもつき)郡に編入され、「姶良」とは別ものだ。統治が困難な隼人を制圧すべく、大和朝廷は多数の渡来人を大隅国に入植させたことは既に述べたが、姶良がもともとは始羅で、新羅からの渡来人が居住したのだ。千年後、島津氏が朝鮮出兵した文禄の役(壬辰倭乱(いむじんうぇらん))と慶長の役(丁酉再乱(ちよんゆちぇらん))に、姶良からかなりの数の兵士が、故地である朝鮮半島に従軍する。軍船の安定をはかる底荷として使われた石製品が持ち帰られた。姶良市東部にある島津義弘公を祀る精矛(くわしほこ)神社には半島伝来の手水鉢と石臼が残る。姶良市帖佐の龍門司焼は、一六世紀末に渡ってきた朝鮮陶工により始められた古帖佐焼の流れをくむ窯である。苗代川焼など、朝鮮征伐の際に連れ帰った陶工が開祖となった窯の一群が薩摩半島一帯に残り、幕末のパリ万国博覧会には、薩摩焼と藩名をつけて独自に出品した。
●大隅半島の陵と九州最南端の佐多岬、錦江湾沿いの柊原貝塚を駆け足で回って息をつく間もなく、熊野三山詣をすることにした。東日本大地震の直後、病み上がりの体だったから、ボランティアで奥州に赴く代わりに、再生を祈る巡礼の旅として杖をつきながら熊野本宮大社に往訪した時には、飛行機で白浜空港から往来し、本宮大社を参拝したが、他の二社には行かなかった。今回は名古屋からバスに乗った。高速道路が延伸され、トンネルばかりで燦めくような紀州の海は見えないから、錦や紀伊長島の港を素通りするような感覚に囚われたが、山あいを抜けて紀伊半島を南下して、早い時間に熊野川を渡り、新宮を過ぎた。先ず熊野那智大社に詣でた。中禅寺湖の華厳の滝は夏冬となく見たことがあるが、那智の大滝は初めて見ることだった。熊野古道の象徴である大門坂のバス停で下車して、古道を自分の足で踏むことにした。南方熊楠が宿泊したという大坂屋跡があり、杉並木に入ってから、樹齢八百年を超える夫婦杉の巨木の間で記念写真を撮った。大門坂を登り詰め、仁王像のある大門をくぐって那智大社の境内に入る。高麗犬が仁王像の後ろに、門の外向きではなく、後ろ向きになっている。那智本社・拝殿の右側に如意輪堂と呼ばれる瓦屋根の建物があり、廃仏毀釈の時に破壊を免れている。現在の那智山青岸渡寺である。神仏習合の世界が長く続いたから、「那智大社と青岸渡寺の三重塔の屋根の高さは同じで、大滝の滝口に揃えている」とのことだ。滝を遙拝する那智大社の境内に、楠の巨木があるが、青岸渡寺の前に、タブノキの巨木が聳えるように植わっている。筆者はタブノキ巡りをして、幾ばくかの力を得た思いであるが、那智の瀑布を眺望する場所にこんなにも大きなタブノキがあることに驚いた。説明を要しないが、タブノキは根をまっすぐに地中深く生やして、あるときは海上からの目印ともなり、あるときには、防潮林として植えられている黒潮の民の木である。和歌山県の天然記念物で、樹齢は七百年をこえる。木の下に碑があるが、由来が書かれていると思うが苔むして判読できない。
 御滝本へ石段を下る。熊野那智大社別宮飛瀧神社の扁額が鳥居にかかる。飛瀧神社の祭神が、出雲を本拠とする大己貴命であり、那智大社の祭神の夫須美大神と異なるのは興味深い。
●速玉大社に一本の梛(なぎ)の大樹がある。祭神の速玉大神と同体とされた伊弉諾尊の名前にも通じる。熱海の伊豆山神社には、源頼朝と北条政子の男女の結縁の強さを象徴するかのように梛の木が植わっているが、梛の葉からは、他の植物の生育を抑制する化学物質が分泌されているとの説があり、梛の葉が道中の魔除けとして重用されたのも故なしとはしない。
●那智では、観音浄土を目指して補陀洛(ふだらく)渡海が行なわれた。補陀洛はチベット語でポタラ、港のことだ。渡海船と呼ばれる木造船に行者が乗り、浄土を目指し熊野灘に漕ぎ出す。難破を免れた船は黒潮に流され、いずこかの浜辺に漂着して、熊野の大神を祀ったのだ。本宮大社に全国熊野神社分布表が掲示されている。千葉二六八、福島二三五、愛知二〇九、栃木一八二、岩手一七六、熊本一五八、新潟一四八、山形一四二、宮城一三三、埼玉一一一、兵庫一〇七、静岡一〇二、福岡一〇二、群馬一〇〇、茨城九九、岐阜九一、和歌山八七、長野八六、山梨七八、高知七二、富山七一、青森七〇、東京七〇、大分六九、鹿児島六九、三重五九、秋田五六、岡山五六、京都五五、石川五三、福井五一、山口四六、佐賀四四、島根四四、神奈川四三、広島三八、長崎三五、愛媛三三、香川二八、奈良二八、滋賀二七、徳島二三、宮崎二〇、大阪一九、北海道一五、鳥取一五、沖縄八。黒潮の洗う朝鮮半島、そして台湾等南方の岸辺、さらに太平洋を跨いで米大陸に熊野を祀った痕跡は残っていないのか、ふと気になった。原子力発電所が暴発した福島の浜通りの海岸にも熊野神社が多く集中して、黄泉返りならぬ、蘇り(よみがえ)を祈る場所となっているのは不思議である。 (つづく)

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