再びの熊野詣で
●錦江湾の奥に、姶良(あいら)市と姶良郡がある。姶良は古くは始羅(しら)と表記され、新羅が語源だ。姶羅(あいら)郡と混同されるが、大隅国「姶羅郡」は現在の鹿屋(かのや)市付近を指し、中世までに肝属(きもつき)郡に編入され、「姶良」とは別ものだ。統治が困難な隼人を制圧すべく、大和朝廷は多数の渡来人を大隅国に入植させたことは既に述べたが、姶良がもともとは始羅で、新羅からの渡来人が居住したのだ。千年後、島津氏が朝鮮出兵した文禄の役(壬辰倭乱(いむじんうぇらん))と慶長の役(丁酉再乱(ちよんゆちぇらん))に、姶良からかなりの数の兵士が、故地である朝鮮半島に従軍する。軍船の安定をはかる底荷として使われた石製品が持ち帰られた。姶良市東部にある島津義弘公を祀る精矛(くわしほこ)神社には半島伝来の手水鉢と石臼が残る。姶良市帖佐の龍門司焼は、一六世紀末に渡ってきた朝鮮陶工により始められた古帖佐焼の流れをくむ窯である。苗代川焼など、朝鮮征伐の際に連れ帰った陶工が開祖となった窯の一群が薩摩半島一帯に残り、幕末のパリ万国博覧会には、薩摩焼と藩名をつけて独自に出品した。
●大隅半島の陵と九州最南端の佐多岬、錦江湾沿いの柊原貝塚を駆け足で回って息をつく間もなく、熊野三山詣をすることにした。東日本大地震の直後、病み上がりの体だったから、ボランティアで奥州に赴く代わりに、再生を祈る巡礼の旅として杖をつきながら熊野本宮大社に往訪した時には、飛行機で白浜空港から往来し、本宮大社を参拝したが、他の二社には行かなかった。今回は名古屋からバスに乗った。高速道路が延伸され、トンネルばかりで燦めくような紀州の海は見えないから、錦や紀伊長島の港を素通りするような感覚に囚われたが、山あいを抜けて紀伊半島を南下して、早い時間に熊野川を渡り、新宮を過ぎた。先ず熊野那智大社に詣でた。中禅寺湖の華厳の滝は夏冬となく見たことがあるが、那智の大滝は初めて見ることだった。熊野古道の象徴である大門坂のバス停で下車して、古道を自分の足で踏むことにした。南方熊楠が宿泊したという大坂屋跡があり、杉並木に入ってから、樹齢八百年を超える夫婦杉の巨木の間で記念写真を撮った。大門坂を登り詰め、仁王像のある大門をくぐって那智大社の境内に入る。高麗犬が仁王像の後ろに、門の外向きではなく、後ろ向きになっている。那智本社・拝殿の右側に如意輪堂と呼ばれる瓦屋根の建物があり、廃仏毀釈の時に破壊を免れている。現在の那智山青岸渡寺である。神仏習合の世界が長く続いたから、「那智大社と青岸渡寺の三重塔の屋根の高さは同じで、大滝の滝口に揃えている」とのことだ。滝を遙拝する那智大社の境内に、楠の巨木があるが、青岸渡寺の前に、タブノキの巨木が聳えるように植わっている。筆者はタブノキ巡りをして、幾ばくかの力を得た思いであるが、那智の瀑布を眺望する場所にこんなにも大きなタブノキがあることに驚いた。説明を要しないが、タブノキは根をまっすぐに地中深く生やして、あるときは海上からの目印ともなり、あるときには、防潮林として植えられている黒潮の民の木である。和歌山県の天然記念物で、樹齢は七百年をこえる。木の下に碑があるが、由来が書かれていると思うが苔むして判読できない。
御滝本へ石段を下る。熊野那智大社別宮飛瀧神社の扁額が鳥居にかかる。飛瀧神社の祭神が、出雲を本拠とする大己貴命であり、那智大社の祭神の夫須美大神と異なるのは興味深い。
●速玉大社に一本の梛(なぎ)の大樹がある。祭神の速玉大神と同体とされた伊弉諾尊の名前にも通じる。熱海の伊豆山神社には、源頼朝と北条政子の男女の結縁の強さを象徴するかのように梛の木が植わっているが、梛の葉からは、他の植物の生育を抑制する化学物質が分泌されているとの説があり、梛の葉が道中の魔除けとして重用されたのも故なしとはしない。
●那智では、観音浄土を目指して補陀洛(ふだらく)渡海が行なわれた。補陀洛はチベット語でポタラ、港のことだ。渡海船と呼ばれる木造船に行者が乗り、浄土を目指し熊野灘に漕ぎ出す。難破を免れた船は黒潮に流され、いずこかの浜辺に漂着して、熊野の大神を祀ったのだ。本宮大社に全国熊野神社分布表が掲示されている。千葉二六八、福島二三五、愛知二〇九、栃木一八二、岩手一七六、熊本一五八、新潟一四八、山形一四二、宮城一三三、埼玉一一一、兵庫一〇七、静岡一〇二、福岡一〇二、群馬一〇〇、茨城九九、岐阜九一、和歌山八七、長野八六、山梨七八、高知七二、富山七一、青森七〇、東京七〇、大分六九、鹿児島六九、三重五九、秋田五六、岡山五六、京都五五、石川五三、福井五一、山口四六、佐賀四四、島根四四、神奈川四三、広島三八、長崎三五、愛媛三三、香川二八、奈良二八、滋賀二七、徳島二三、宮崎二〇、大阪一九、北海道一五、鳥取一五、沖縄八。黒潮の洗う朝鮮半島、そして台湾等南方の岸辺、さらに太平洋を跨いで米大陸に熊野を祀った痕跡は残っていないのか、ふと気になった。原子力発電所が暴発した福島の浜通りの海岸にも熊野神社が多く集中して、黄泉返りならぬ、蘇り(よみがえ)を祈る場所となっているのは不思議である。 (つづく)
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