花の窟で乱舞するアサギマダラ
●熊野の海岸には奇岩奇勝が連なる。鬼ヶ城という海岸もある。熊野川を渡り、国道を北上するバスの窓からは、天然の狛犬である獅子岩が見える。巨岩の山塊が七里御浜海岸に突き出しているのが花(はな)の窟だ(いわや)。花の窟は熊野三山
の親神だと言われ、日本最古の神社ともされる。火の神・軻遇突智(かぐつち)を生み、産褥熱で亡くなった伊弉冉尊(いざなみのみこと)を鎮める陵が花の窟とされるからである。巨岩を御神体とする社殿のない古社である。お綱掛け神事は、稲藁で編んだ一八〇メートルの綱七本を一つに束ねて「お綱」として、高さ五〇メートルの御神体の厳の頂上から引っ張って、季節の花々をお綱の幡旗(ばんき)に飾る。大注連縄(しめなわ)を、境内を越え国道を跨いで海岸の波打際まで引っ張って行くが、この「お綱」がさながら神々の領域の結界を示し、現世と海の彼方の常世とを繋いでいるかのようだ。一本一本では弱い稲藁が合わさって撚られると強度が上がり、注連縄になっていくことを、黒潮の民は知っている。その大綱を季節の変わり目毎に花で飾り、農耕儀礼の原初の姿を思い出して保ち続けるのだ。筆者は潜って見た訳ではないが、花の窟の一キロ沖に、陸の窟と同じような巨岩が海中に聳えているという。海と山とを繋ぐ「お綱」だとの説明はいよいよ説得力が増す。七里御浜の海岸に出て波打際を歩くと、玉砂利の海岸で、カチカチと乾いた足音が響く。那智黒という碁石にするような濡れ羽色の黒い石が見つかることもある。固い灰色の丸石の玉砂利の海岸である。神武天皇が東征に出立したと言い伝える日向の美々津海岸が大きな玉石の海岸だったことを思い出す。白い砂浜が延々と続くわけではなく、波に濡れた砂が裸足にまつわりつくこともない。
●熊野の海岸から内陸に入り、熊野川の支流の一つである北山川沿いの紀和町に、日本有数の銅山があった。奈良の大仏もその銅山からの銅で鋳造されたとの記録がある。昭和五三年に閉山するまで、無数の坑道が掘られた。坑道の中を走っていたトロッコ電車が、鉱山資料館前に展示されている。坑道から湧出した温泉が第3セクターの宿泊施設に引かれ、入鹿温泉と湯ノ口温泉となっている。観光客の為に両温泉の間を一〇分かけて今もトロッコ電車が走っている。紀和町の丸山地区には千枚田があり、山を駆け登るように稲作をした黒潮の民の開拓の所為を見ることができる。紀和町では、日本固有の鳥である雉の養殖をしているのは珍しい。旧紀和町の事業を引き継いで熊野ふるさと振興公社が日本雉を狩猟用に、高麗雉を食肉用に養殖している。雉肉は家禽としての鶏の肉よりも歴史は古い。流行のジビエの部類であっても、低カロリーの高タンパク質でさっぱりした美味である。天武天皇や聖武天皇の時代から、鶏は食肉禁止令の対象になったが、雉肉はむしろ狩猟の対象であったから、諏訪大社の鹿肉と同じように、絶対的な禁忌(タブー)にはならなかった。雉は、むしろ、カスピ海沿岸以東のアジア大陸から朝鮮半島を経て日本列島に至る広がりのある、ユーラシア大陸を舞台とする鳥である。雉は北海道には元々いない。台湾の山岳には帝雉(みかどきじ)がいるが、対馬や南西諸島の島々にはいない。丸山千枚田の棚田と力を合わせ、雉が海と山のふるさと振興を担っているのは面白い。「焼け野の雉子(きぎす)、夜の鶴」と言うのも宜なるかなである。日本列島のあちこちで優雅に舞っていた鶴が薩摩の出水や阿久根に飛来するばかりに減ってしまった。根釧原野の丹頂鶴も数は少ない。シベリアの環境保全をして、雉や鶴の鳥類の往来を助け、ロシアが北方領土を返還する気運を醸成をしてはどうか。
●花の窟の神社への参道の入口にタブノキが植わっていた。那智の滝を遠望するタブノキのような巨木ではないが、参道の入口に植わっているのは、津波等の災いを門前のタブノキで花の窟を守ろうとした気配を感じる。
●花の窟の巨岩の下にアサギマダラという蝶々が数匹ひらりひらりと舞っているのを見た。一〇月下旬だったから、そのアサギマダラは日本列島から南方に向けて旅立つ準備をしていたに違いない。夏に日本本土で発生したアサギマダラの多くの個体が秋になると南西諸島や台湾まで南下することが判明している。直線距離で一五〇〇キロ以上移動したり、一日当たり二〇〇キロ以上の速さで移動する例もある。大分県の国東半島の沖の姫島にはアサギマダラが集まり乱舞する場所があるという。毎年五月初旬から六月初めに南方から飛来して、姫島北部のみつけ海岸に自生するスナビキソウの群生地に何千という蝶々が集まる。五日から六日の間姫島に滞在し、さらに北に向かって列島各地に飛び立つ。信州の八ヶ岳にはアサギマダラが夏の間に繁殖する場所がある。同じ個体が渡りをする鳥とは異なり、この蝶は日本列島で世代交代して、新しい世代が南西諸島や台湾に向かって飛び立ち、また南方で世代を交代して、北の日本列島に飛び立つ渡りを繰り返す習性のようだ。神武東征の経路は、国東半島と熊野経由のアサギマダラの北帰行をなぞっているのではないかと、花の窟で出立準備をする蝶々を見てふと思った。(つづく)
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