構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

経済・政治・国際

Quo va Dis, Domine?

「有識者」とは何なのか

天皇陛下の「公務の負担軽減等に関する有識者会議」が6人の構成員(有識者)で組織され、その初会合が10月17日に開催されると、新聞は報じている。有識者会議の事務局を、内閣官房皇室典範改正準備室が担当することになり、同室の体制を強化したことも発表されている。
  有識者会議の女性の構成員のひとりについて、早速、ある週刊誌が「学歴詐称」の問題を取り上げているが、気になることがある。高杉良の経済小説に「虚像」(新潮社、2011年、「虚像の政商」と改題し、新潮文庫に収録)という作品がある。「大泉純太郎内閣の政権中枢に食い込んで、規制緩和の旗振り役となったノンバンクの帝王」が主人公で、一読すれば、誰がモデルなのか、ただちに分かるノンフィクションに限りなく近い小説だ。このなかに、登場する女性「長崎茜」という人物が女性有識者のひとりとよく似ている。畏れ多い問題を検討する有識者会議の一員だけに、気になってならない。同じでないことを祈るばかりだ。念の為だが、その「虚像」は上下巻の大部であるから、関連部分は(上巻の37頁)、第一章「深夜のノック」にある。口にのせることさえ憚る薄汚さを感じるが、事実は如何に。マスコミの調査報道に期待する。

Impeachment

下記の文書が当方ブログに届いた。9月24日付、東京都内の郵便局の消印があった。ご参考まで。当方ブログは、郵政民営化の虚妄に翻弄されたなががも新自由主義の蛮行にささやかな抵抗を試みてきたこともあり、この文書の筆者の主張には、同志を得た思いであるが、残念ながら住所も署名は入っていない。封筒の裏には、郵便局を守る会と書いただけの小さなシールがはられていた。

                                                                                                       2016.9
「横山邦男の日本郵便((株))社長就任を糾弾する」
                                                                                                        郵便局を守る会

 去る6月28日、元三井住友銀行常務執行役で前三井住友アセットマネジメント代表取締役社長であった横山邦男が、日本郵政(株)取締役を兼務する形で日本郵便(株)代表取締役社長に就任した。同人は、かって元三井住友銀行会長から日本郵政代表執行役社長に就任した西川善文の側近として帯同し、2006年2月から2008年10月まで日本郵政専務執行役として勤めていたものであるが、その間かんぽの宿等の一括廉価売却や日本郵便のゆうパックと日通ペリカン便との統合による大損失を発生せしめるなど郵政グループの中枢にあって事業経営に多大の損;外をもたらした張本人である。同人は、西川社長の厚い信任を得て、三井住友銀行出身者等(いわゆる4人組)の首領となって郵政プロパーの意向を無視してほしいままに郵政事業経営に対する背信行為を行った。
 その数々の背信行為は、西川社長退任後の2010年1月に総務省に設置された日本郵政ガバナンス検証委員会(委員長 弁護士郷原信郎)の日本郵政ガバナンス問題調査専門委員会報告書(別添)検証総括報告書の中で、仮名「A専務」の行為として記録・報告されている。主な背信行為は、以下のとおりである。

(1)  日本郵便の物流事業(ゆーパック)と日通の宅配便事業(ペリカン便)の統合事案
  日本郵政の西川は、ゆうぱっくとペリカン便の統合を企てたが、両事業とも赤字であったので統合に夜赤字の拡大を予想した日本郵便の当時の会長や社長は、統合に消極的であった。すると西川は、日通との統合交渉から当事者の日本郵便を外し、すべてを部下の横山に任せた。横山は、日本郵便の首脳陣に何も知らせずに一方的に交渉を進め、2007年10月日本郵政・日通間の基本合意書を締結し、さらに日本郵便首脳陣の反対を押し切り、2008年4月日本郵便・日通間の基本合意書を締結させ、同年10月統合会社JPエクスプレス(JPEX)を設立させた。しかし監督官庁の総務相が郵便事業からのゆうパックの切り離しを認めなかったため、日本郵便はやむ得なく2010年7月JPEX社を生産し、日通のペリカン便事業をゆうパックを含む郵便事業全体の中に吸収することとした。
 JPEX社資産の日本郵便への承継により、日本郵便はJPEX社解散時に983億円の累積損失が見込まれ、その後数年間日本郵便は、その赤字処理に苦しむこととなった。このように日本郵便の今日の財務悪化tの原因を作ったのが、日本郵便の社外取締役を含む経営陣の意向を無視して統合を強行した西川と横山であった。
(2)  かんぽの宿等の一括廉価売却事案
 日本郵政は、国営郵政事業からかんぽの宿等各種の利用者福祉施設を受け継いでいたが、郵政事業の民営化を契機に不採算施設の処分を進めていた。横山は、この各種世説の処分を任されていたが、長年説運営に当たっていた関係社員や処分についてアドバイザーとなった専門家の意見をも無視し、恣意的判断で処分を強行したのである。
 すなわち、かんぽの宿等は、国営事業から承継した国有財産として公正かつ敵性評価で処分すべきものである。当時サブプライムローン問題による不動産市況冷え込み等により、セラー安渡バイザイーのメリルリンチ日本証券から2008年8月~11月にかけ三度にわたり処分の中止や円気等の選択肢が提言されていた。また同じくセラーアドバイザーの日本政策投資銀行から処分価値の増大等の観点から個別売却を助言されていた。しかるに横山を責任者とする執行部は、これらの提言、助言を無視し、2008年12月不当に低価でオリックス不動産との一括事業譲渡契約を締結した。
 締結に当たり付議した経営会議も極めて形式的なものであったうえ、その後に置いても取締役会における本事案の報告の際に社外取締役から出された種々の有益な意見を執行部は平然と無視したのである。
(3)郵政の自社ビルJPタワーに入れない郵政博物館の事案
これはガバナ数素見小委員会の調査事項ではないが、横山が行った重大な背信行為として記録に残されるべきことである。
 前島密(1853年_1919年)は、郵政グループ内では、国営事業の時代から「郵便事業の父」と呼ばれ、正に郵政事業の創業者(ファウンダー)である。このことは郵政が民営化された今日でも変わらず、その創業の精神は新生の郵政各社に連綿として受け継がれている。
 郵政事業の創業者である前島密の遺品や創業時の関連資料は、1964年の国営事業時代から東京・大手町の逓信ビルに設置阿荒れた逓信総合博物館に大切に保存され、一般公開もされていた。一方、東京・丸の内の東京中央郵便局が今日の高層ビルJPタワーに建て替えられるに辺り、東京都は、建築許可の条件の一つとしてビル内に文化施設の設置を認めた。ちょうど同じ頃逓信総合博物館の入って居る逓信ビルの解体・建て替えヶ検討されていたので、当然のこととして博物館を運営する逓信協会の理事長から日本郵政側に博物館のJPタワーへの移転の要望が出された。しかし、逓信総合博物館の展示物の中でNTTとNHKを除く郵政の展示物だけが日本郵政の直轄で運営されていたため、東京都は、郵政博物館は郵政の宣伝施設であるため文化史悦の条件に該当しないと判断した。これに対し、横山らの執行部は、郵政の展示物について文化資産であるとの反論をせず、また文化施設の条件を満たす為の何等の工夫・検討もせず、安易に郵政博物館を排除して一般公募にかけ、郵政とは縁もゆかりもない東京大学の博物館を入れること年、今日JPタワー2・3階にインターメディアテクの名称で東京大学が、博物館を開設している。
 この結果、逓信ビルの解体が決まると郵政グループ内での行き場のなくなった郵政博物館は、やむなく東武鉄道からスカイツリーのお膝元のソラマチビルの9階フロアを借り、公益財団法人通信文化協会の事業として、2014年から細々とオープンしたのである。
 民間企業であれば創業者の遺品や関連資料は、自社内の施設の中で大切に保存され、長い伝統を有する大企業であれば、歴史的価値のある貴重な資料として一般の閲覧、公開にも応じるのが常識である。しかるに、郵政の場合、創業者の遺品・文献や創業時の関連資料を保存し、公開している郵政博物館が、郵政グループ内の施設にも入れず、高い敷金と借料を払って民間の商業施設に入り、他方郵政とは縁もゆかりもない東大の博物館が、敷金も借料も払わず(おまけに日本郵政は、運営費として3億円の基金まで寄付している。)、東京駅前の超一等地にある郵政の自社ビルに堂々と入っている。この理不尽に多くの人は気づいていない。
 横山を初めとする当時郵政の不動産処理に当たった外人蓋の郵政事業の歴史の無知・無理解、郵政事業への情熱の欠如が、このような理不尽な結果を章せしめたKと尾は明かである。もし、横山らに創業者の資料は郵政の自社ビル内に大切に保存しなければならないと言い動く当たり前の常識があれば、東京都の文化史越非該当との単純な言いがかりに対し、日本郵政の保有する展示物について公益認定されるべき歴史的価値の名るン文化遺産であると主張できたはずであり、さらに日本郵政の直営から切り離し、今日のように公益財団法人のもとで事業運営するという智恵を働かせることにより、建築条件を完全にクリアして、郵政博物館は郵政自社ビルのJPタワーに入ることができたのである。
 今日、高額な敷金と年間借料は、日本郵政が(公財)通信文化協会への事務委託費として支払い、日本郵政に毎年大きな損失を与え続けているのである。

 以上横山の関与した三つの日本郵政在勤中の背信行為を述べてきたが、冒頭のコンプライアンス委の報告書の中には、その他のコンプライアン明日違反事案が指摘されている。
 コンプライアンス検証委員会のヒアリング調査に大使、郵政グループのプロパー職員は、ヒアリングに応じたが、西川及び横山を筆頭とする三井住友銀行向者などは、総務省と郷原委員長の再三の要請にも関わらず、多忙等の理由でヒアリングに応じていない。弁明の機会があったにもかかわらずそれを拒否するという不誠実かつ真実解明に協力しないという態度は、自らの誤りを隠蔽する行為だと批判されてもやむをえまい。
 西川及び横山は、かんぽの宿等の所ぶんっじあんの特別背任容疑で東京地検に告訴・受理されるなど辞任圧力に抗しきれなくなり、2009年10月西川が日本郵政の社長を辞任すると、横山を首領とする四人組も追われるように郵政を去っていった。
 横山邦男は、3年8ヶ月日本郵政専務執行役として在任中、社長西川の新任をいいことに郵政グループの事業譲渡やグループの保有する不動産がらみの案件処理について、恣意的かつ専横的に振る舞い、郵政グループに対し多大な損失をもたらす重大な背信行為を行った人物である。横山のこのようなやり口は、郵政グループ内で不評を買うこと隣、横山自身も郵政社員の憎悪の的となっていたことは気付いていたはずである。それがあろう事か日本郵便の社長候補に挙がると、固持するどころか厚顔無恥にも受諾し、歓迎されない職場に出戻り、ぬくぬくとトップの座に就いたのである。
 横山邦男は、郵政事業に対する思い入れは微塵もなく、むしろ郵政事業に多大な損害をもたらした人物であり、郵政グループから永久追放されるべきA級戦犯として責任追及があって然るべきである。そのA級戦犯がで戻って日本郵便のトップにすわる現状は、日本郵便の社員全体の士気は下がるばかりで、社員はもとより郵政サービスを利用する国民にとっても不幸このうえない事態となっている。
 郵政グループの社員は、一丸となって横山邦男の排斥運動に立ち上がるべきである。
 ここに横山邦男の社長就任を糾弾し、日本郵政と日本郵便の取締役会に対し、即刻同人を日本郵政取締役と日本郵便代表取締役社長の解任を要求する。
 併せて日本郵政の株主である国と監督官庁である総務省に対し、株主権と監督権限を発動して両社に横山邦男の取締役と社長解任を決議させると共に不明朗な同人の社長就任の敬意を調査し、公表することを要求する次第である。

Kuroshio 165

「府馬の大楠」というタブノキ

●浜松町の貿易センタービルの一階に、房総半島の各方面に向かう高速バスのターミナルがある。「府(ふ)馬(ま)の大楠」というタブノキの巨木を見るために早起きして、銚子行きの高速バスに乗った。酒々井(しすい)のアウトレットに寄り、利根川の堤防に出て、神崎(こうざき)の道の駅に停車、利根川から香取神宮へ参拝する入口である津宮(つのみや)に寄り、筆者は、小見川(おみがわ)で降りた。鉄道の駅とバスの停留所は離れており、成田線の小見川駅まで歩いてタクシーを拾った。府馬までは歩くと一時間半はかかる。日頃は自分の足で歩くのだが、初めての土地でもあり、かんかん照りの真夏日だったから、往路は楽をすることにした。メーターが二千円を超える遠距離だったから、タクシーに乗って正解だった。府馬は、標高四〇メートルの台地の北端の小高い丘の上の集落で、天然記念物の標識と共に、根元に注連縄が張られた巨木が宇賀神社の神木として鎮座している。千葉県香取市府馬2395番地の宇賀神社には小さな社殿があり、その前に、訪問者の名前を記帳する台や説明書などが置いてある小屋がある。宇賀神社は宝亀四年(七三三)宇氣母知神を勧請したことに始まるとされる。地図で見ると、宇賀神社のある府馬は、香取神宮の真南に位置する。「大楠」が大正一五年一○月二◯日に国の天然記念物に指定されたとする碑には「府馬之大楠」と刻まれ、「山ノ堆の大楠」とも呼ばれてきたのだが、実は日本有数のタブノキの巨樹である。なにゆえにクスノキと間違えたのかは判らないが、近くの香取郡神崎の神崎神社に大楠があり、もともとタブノキはイヌクスと呼ぶ地方もあるので、同じ楠として区別をつけなかったのだろうか。それが、昭和四四年に至って、本田正次博士による調査により、クスノキではなく、タブノキであると確定している。樹高約一六メートル、幹周約一五メートル、根周は何と約二八メートルにもなり、樹齢は一三○○年とも一五○○年ともいわれている。北側には、小グスと呼ばれているタブノキがあるが、元は「大楠」の枝が地上に垂れ根を張って成長したもので、元々は繫がっていた。その証拠に、江戸時代後期の「下総名勝図絵」(宮負定雄・川名登編、国書刊行会 一九八○年)に大楠の図があって、大小の「楠」の枝が繫がって描かれている。平成二五年の台風第二六号で大きな被害を受け、香取市が本体幹の治療などを施して、倒れた太い枝も移植して保存している。「大楠」の北西部は整備されて公園となっており、展望台もある。展望台からは『麻績千丈ヶ谷』とよばれる谷津(やつ)を眺めることができる。大地の間に枝のように入り組んだ細長い地形の低地を谷津というが、海水面が今より十二メートルは上昇していた縄文海進の時代には、その谷津が海であったことが想像できる。近くの大地の集落である、田部の沖、竹ノ内、小見、高野の各集落を島になぞらえ、『陸の松島』と呼んでいることにも納得がいく。帰りは、小見川駅まで一時間半の距離を歩いたが、「大楠」のある台地は、遠望すると水平線の上に出た島影のように見えた。利根川堤防から地平線が見えたかと知人に聞かれたが、なるほど、関東平野は、海が徐々に干上がり淡水湖の霞ヶ浦とともに大平原を成したことが分かる。

●麻績と書いて、「おみ」と訓むことは筆者には新発見だった。長野県の筑摩郡の奥に、麻績村という美しい村が今もあることも知った。府馬の大楠を観察するために高速バスを下車した小見川(おみがわ)の小見は麻績と同じ訓である。霞ヶ浦航空隊跡地に建てられた記念館を訪ねた際に、麻生町があったことを覚えていたが、その麻生町は茨城県
行方市の一部となり、府馬のある香取市の霞ヶ浦の対岸に位置する。府馬の高台から望む麻績千丈ヶ谷の名も、麻との関係を証明しているから、この一帯が麻織物の一大生産地であったことを想像させる。辞書には「おみ【麻績】〔「おうみ(麻績)」の転〕青麻(あおそ)を績むこと。また,それをする人」と解説し、「打麻(うつそ)やし麻績の子らあり衣の宝の子らが」と万葉長歌を引く。『延喜式』伊勢神宮神衣祭の項に「右和妙(にぎたえ)の衣は服部氏、荒衣(あらたえ)衣は麻績(おうみ)氏。各自潔斎して、祭日一日より始めて織り造り、十四日に至りて祭に供ふ」とあるから、近辺の麻績の谷津の村々では、香取や鹿島の神宮に献上する荒衣が紡ぎ織られていたことは間違いあるまい。

●香取市の周辺に大古墳群が散在する。国道沿いにバスの窓からも前方後円墳が眺められた。利根川南岸の自然堤防上に分布する古墳群には、前方後円墳が五基、円墳が六基あるという。江戸時代以前は、香取神宮の前に広がる内海は香取海(かとりのうみ)と呼ばれ、関東平野の東部に湾入して下総と常陸の国境に存在し、鬼怒川等が注いでいた。内海、流海、浪逆海(なさかのうみ)などの名があり、鬼怒川が注ぐ湾入部は榎浦と呼ばれ、黒潮の海民の住む浮嶋もあった。神栖神社の巨樹が元は砂地に植樹されたことは書いた。大化の改新の後、匝瑳(そうさ)郡の一部を香取郡とし、香取神宮の神主は大中臣氏(おおなかとみうじ)が務め、奈良の春日大社には、鹿島の武甕槌(たけみかづち)大神と香取の経津主神(ふつぬしのかみ)が勧請されており、藤原氏と深い関係のあることを想像させるのだ。(つづく)

Poisonous Dose

情報感度を研ぎ澄ます!—ビジネス情報誌 EL NEOS[ザ・ニュース]という月刊雑誌がある。2016年9月最新号の13ページに、情報スクランブルというコラムがあり、短い囲み記事のひとつとして、「苦境の日本郵便社長に横山邦男氏が再登板」と題する記事が掲載されている。

ヤマト運輸や佐川急便などの大手にことごとく打ちのめされている日本郵便。「売り上げが三兆円、経費も三兆円」と揶揄されるように、民間の物流会社に比べ割高な経費等が足を引っ張り、日本郵政グループの中ですっかりお荷物になっている。2017年3月期の日本郵便の利益は120億円と、六年ぶりの低水準に沈む。さらに深刻なのが,「巨額の買収にも関わらず、全く利益貢献していない海外事業」(大手証券アナリスト)だ。日本郵便が昨年、約6200億円で買収した豪物流会社トール・ホールディングスも「お役所仕事に慣れた日本人幹部が外国人をマネージメントできず、会社がうまく回っていない」(日本郵便幹部)と早くも「巨額ののれん代の償却が待ち受けている」(同)との声が社内から漏れ始めている。こうした状況を打破するため、官邸はあえて劇薬を投入した。かつて生え抜き組や監督官庁である総務省からバッシングを受けて一度、日本郵便を退いた横山邦男・三井住友アセットマネジメント社長を再び招いたのだ。横山氏は三井住友銀行出身。同行頭取から日本郵政社長に転じた西川善文氏の腹心の専務として、「かんぽの宿」の売却や日本通運との宅配便事業統合に関わったが、いずれも計画が頓挫して問題視され、三井住友銀に戻っていた。早速、横山氏はインターネット通販事業者向け代金決済事業から撤退することを決めるなどの改革に乗り出し始めたが、「生え抜きの幹部や各地の特定郵便局の幹部の抵抗、総務省との確執など、お役所体質から脱皮するのは至難の業」(大手証券アナリスト)との指摘は多い。厳しい業績の中、横山氏投入が「吉と出るか凶と出るか」大いに注目される。

とある。大手証券アナリストのコメントが軽妙なおとぼけなところは御愛嬌であるが、出戻りのこわもての経営者が劇薬どころか毒薬ではないかなどと邪推?しかねないような深刻な内容である。ご関心の向きは現物の雑誌を参照されたいが、とりあえず、文字起こしをしてみた。ご参考まで。

Yalta 

清瀬一郎は、東京裁判の弁護団副団長であり、東条英機の主任弁護人を務めた人物である。清瀬は明治十七年、姫路の北方の夢前町杉之内に生まれている。司法省に入ったが、官職を辞し弁護士となり、ドイツに留学し、特許法の専門家として、また、思想事件の刑事弁護士として活躍し、大正九年に衆議院議員に当選している。戦後一度落選したが、その...死に至るまで議員活動を続けている。

  東京軍事裁判についての回想録が、秘録東京軍事裁判との題で読売新聞社から、昭和42年に出版されている。

その回想録の第十二章は、歴史に残さるべき重大問題と題して、原子爆弾投下について東京裁判で追求したことと、ヤルタ協定は知らなかったことが東京裁判を正しく評価するためには重要であると、指摘しているので、
  紹介する。

まず、原爆投下についての追求のことであるが、東京裁判の被告人に1人1人の米人弁護士がついたことを紹介して、その弁護人が、「一旦弁護を引き受けた以上、自分の本国政府に反しても,弁護したる任務を尽くすことに躊躇しない気魄を示した。」と書いている。その一例として、スチムソン陸軍長官が原爆使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとしたことを挙げ、梅津美治郎被告の弁護人だった、ブレークニー弁護人が追求して、この証拠提出が許されたら、世界的な大問題となるべきものだと指摘している。イギリスの検事コミンズカーが、すぐ意義を提出したが、ハーグ陸戦法規の毒ガス、細菌などの兵器の使用を禁ずる規定を盾に反論している。ウェブ裁判長が、原爆の投下が戦争犯罪であると仮定して、何の関係があるかとの問いに対して、ブレークニーは、報復の権利を持ち出してマニラの事件も原爆投下後の事件として考えられると指摘している。「裁判長は、無理押しにこの証拠申し立てを却下してしまった。今でこそスチムソンの原子爆弾使用のことは、世間で知らぬ者はないが、当時はどこで決定されたかはだれも知らなかった。」そのブレークニー弁護人は、東京裁判後もl日本に残り、東大で英米法を教え、東京で弁護士を開業していたが、自家用飛行機で沖縄に渡る際に、伊豆の天城山に衝突してなくなったが、勲二等の叙勲があり、郷里のオクラホマに送ってその目伊具句を祈ったという。木戸幸一被告のローガン弁護人は、「欧米諸国は日本の権利を完全に無視し、無謀な経済的圧迫をなした。また,真珠湾に先立ち、数年間濃いに、かつ計画的に、共謀的に日本に対し経済的、軍事的圧迫を加え、しかもその結果が戦争になることは十分に承知しており、そうげんめいしながら、彼らが右の行為をとったと言う事実がある。また、肯定的弁護として次の事実が証明される。即ち情勢はいよいよ切迫し、ますます耐え難くなったので、日本は欧米諸国の思うツボにはまり、日本からまず手をだすようにと彼等がよきし、希望したとおり、じこのせいぞんそのもののために戦争の決意をせざるを得なくなった」と主張したとして、小磯国昭被告ののブルックス弁護人、大島浩被告のカニンガム弁護人、被広田弘毅被告のスミス弁護人をなかなか気骨のある人物で、「アメリカ自身のあやまちでもこれをあぐるには躊躇しなかった」と書いている。

これは感想にすぎないのであるが、東京を焼け野が原にした米空軍の将軍にやった勲章に比べることはできなくとも、こうした米人弁護人の顕彰を、日本がちゃんとやっていないように思われて仕方がない。最近、マニラの山下裁判の弁護人、フランクリールの回想録を読んで近々月刊日本にその顛末を発表する予定であるが、むしろ日本の方が、世話になった外国人のことを話題にもしなくなり、歴史の検証を怠ってきていることではないかとつらつら考えたことである。今からでも遅くはない。東京裁判で、日本の被告の立場を主張した、米人と外国人弁護士の顕彰を何とか行うことが必要である。戦後レジームの見直しとは強がりをいうことではない。

  清瀬一郎は、ポツダム宣言を受け取ったときにも、ソ連が満洲になだれこんだときにも、ポツダム宣言を受諾を発表したときも、東京裁判が始まった昭和21年の5月の団塊でも、ヤルタ協定の日本に対する部分が知らされていなかったことを指摘して、不正な協定があったことが分かったのは、東京裁判が相当進行した後だった、と回想している。

  昭和二十年の12月に米国陸軍法務官プライスという人がニューヨークタイムスに次のような論文を発表したと紹介して、その内容は、要旨、「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったとして懲罰するようなことだが、無意味だからやめた方がいい、何故なら,アメリカにせきにんがあり、ソ連は、不可侵条約を破って参戦したが、スターリンだけの責任で波無く、戦後に千島、樺太を譲ることをじょうけんとして、日本攻撃を依頼し、共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりしてちょうばつしても、精神的効果はない」として、その内容は日本にもつたわったが、作者が米国人で、しかも軍の法務官であったことには度の大胆さに驚いたとしているが、米国内では、部分的に知られていたが、日本では知られていなかったとしている。

ヤルタ協定は、昭和20年2月クリミヤ半島のヤルタで、米英ソが戦争の最終的撃破の為の会合であった。2月11日に、コムにケを発表して、ドイツの撃破、ドイツの占領管理、ドイツの賠償のことが明らかになったが、日本については秘密とされた。今では、その全文を知ることができるから、その内容は、要旨、「米英ソは、ドイツの降伏の後に、二ヶ月又は三ヶ月後に、ソ連が対日戦争に参加することを協定して、①外モンゴルの現状を維持する、②南樺太と隣接する全ての島はソ連に返還する,,大連商港におけるソ連の理駅を擁護して、港を国際化して、旅順口のソ連の租借権は回復する、東清鉄道、南満洲鉄道は、中ソ合弁で共同運営するが、ソ連の優先的理駅を保障して、中華民国が満洲における完全な主権を保有する、千島列島はソ連に引き渡す、3国の首脳は、ソ連の要求が、日本が敗北した後に確実に満足されることを協定した、ともある。また、ソ連は、ソ連と中華明国との間の友好同盟条約を締結する用意があることを表明する」と言うものであった。

  清瀬一郎は、「ヤルタ協定は、明らかに、ルーズベルトとチャーチルとの間に締結された大西洋憲章に違背しておる。それのみならず、昭和20年2月と言えば、日ソ間の中立条約が厳然として効力を有する時代である」として、「かかる時代に中立義務ある一方を,利をもって誘惑し,理由なき参戦をなさしめ、ポツダム宣言にも事後の参加を許し、対日関係の連合軍の一員につかしめ、検察団に代表を送り、裁判官の席を与えて裁判を進行した。三歳の児童でもこんな裁判に承服するはずがない。「文明」が原告だとか、「永遠の平和」が目的だとか言ってもおかしくてたまらない。果たして裁判以降平和が保たれたであろうか。」と激白して、その章の末尾は、「東京裁判がキーナンの言ったように、永久平和をもたらすことは明らかに失敗した。」と書いている。

Conservative

いつの年の文藝春秋だったが不明だが、土俗の思想と題する一文を亀井静香氏が寄稿している。その原稿が手元に残っていたので、文字興しをした。本質論である。

文藝春秋6月号掲載(5月10日発売)

オピニオン特集「今こそ問う 保守とは何か」(仮題)

               土俗の思想           

                                 亀井静香

 「保守」とは人間同士や自然、生きとし行ける物との共生の思想を包含しつつより良きものを目指すことであり、「革新」は温故知新の概念であるはずだ。しかし現実は怠惰な情念に溺れた保身が「保守」であり、より事故の利益を追う者が「革新」になっている。これらの大きな原因はこの地球に人類が生まれて以来欲望を満たすために文明を追求し続けた結果、環境破壊、原発事故のみならず、人間の心を蝕む形でその反逆を受けているからに違いない。

世界共通の現象であるが我が国に於いても福島原発で人類の存亡に関わる重大な事故を起こしながらも、喉元過ぎれば原発再稼働の動きが大きな流になっている。各紙の世論調査では原発の推進や消費税造成に対しての賛成は少数であるにも拘わらず、選挙に於いてはそれらを推進する政党を国民が支持すると言う矛盾が起きているのだ。

私が知る安倍総理は間違いなく鎮守の森を中心とした皆で助け合っていく村社会を良き日本のイメージとしていたはずだ。ところが現実は村社会の荒廃や格差の拡大という全く逆の状況をどんどん作り出している。こうした現象は明治維新にまで遡る。

一君万民、皆平等の維新の思想が薩長による天皇の政治利用と言う形で文明開化が進められ、歪められた中で自由民権運動も消え去り、水平社が生まれていく事態にもなった。戦後はアメリカの物心両面による占領支配に対してマルクス・レーニン主義、トロッキズム、その他の外来の思想による反撃しか行われず、日本人の「土俗の思想」での反撃は起きなかった。その結果戦後の「保守」はアメリカの支配により利益を成就する層を守る仮面として使われてきた。「革新」もまた外来種の思想に基づく社会を構築する為のものとして機能したのだ。

今日本はこの地球を文明rの反逆から守るという視点から行動すべきであり、その為には行き過ぎたグローバルな金融資本主義や新自由主義を是正し、刊行問題にも自己犠牲を厭わずにリーダーシップを取るべきだろう。

Kuroshio 164

相模のタブノキを巡って

●『万葉集』の東歌で、相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな と詠われる大山(おおやま)が相模の国にある。山頂には磐座(いわくら)があり、阿夫利神社の本社とされる。中腹に阿夫利(あふり)神社下社、大山寺が建っている。今は、ケーブルカーで山麓から下社まで楽に登ることができる。小田急小田原線伊勢原駅からバスに乗って山麓のケーブル駅に行き、そこから大山寺駅を経由して下社最寄りの阿夫利神社駅に登るが、下社からの相模平野の眺望は絶景である。下社から大山山頂までは徒歩で一時間半ほどだ。その大山の北東の山麓に清川村がある。昭和三十一年九月末に 煤(すす)ヶ谷村と宮ヶ瀬村が合併して清川村となるが、平成十三年に宮ヶ瀬ダムが完成して、ダム所在地としての交付金が約八億五〇〇〇万円あり、村の財政は健全で、地方交付税交付がない富裕な地方自治体となっている。神奈川県唯一の村として人口も三千五百人規模を維持している。タブノキの巨木があるのは清川村の古在家(こざいけ)という集落の茶畑の中だ。村役場の近くに道の駅があり、その駐車場に車を停めて、そこから主要地方道伊勢原津久井線(六四号線)沿いに次の集落の古在家に歩いて行くのが便利だ。古在家のバス停を過ぎ北の方角に歩くと、一級河川の子鮎川にかかる中川橋があるが、その手前に(株)山口製材の看板があり、更にその少し手前の路地になった急坂を登り、「二八〇〇」という地番のついた人家の庭の脇を通り抜けて、茶畑に辿り着く。その先の斜面に、かながわ名木百選の一つ「煤が谷(すす たに)のシバの大木」がある。左側には墓地があり、墓碑には山口家と刻まれているところを見ると、山への入口という土地の由来が窺える。古在家の次のバス停は坂尻であるから、相模湾から川を遡って最奥で、山がいよいよ急斜面となるとっかかりの地形にタブノキが植えられたことになる。水が染みだすような湿り気のある土地で、古木には洞ができていて蜂の巣があるらしく、夥しい数の蜂が羽音を立てて飛び回っていた。その枝の下を、特に蜂を刺激する黒い半袖シャツを着て通るのは勇気がいる。私有地の中にあり、ほとんど訪れる人もなく、今は地元にも知らない人が居るほどであるが、タブノキの上の山の斜面にバイパスの車道工事が進んでいるから、そのうちに道路際に車を停めて車窓から楽に眺めることができるようになる。煤が谷には八幡神社の社叢林もあるが、カシの大木はあっても、タブノキは見当たらない。八幡神社の近くに村立「ふれあいセンター別所の湯」があるが、沸かし湯で天然の温泉ではない。入場料が三時間七百円で、食事をすると一時間延長になり、タブノキ巡りの汗を流すのには便利だ。

●清川村の隣の愛川町にもタブノキがある。戦国時代に、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが山岳戦を愛川町三増で繰り広げられたとされるが、北条氏の田代城のあった場所が今は愛川中学校となり、その校内にタブノキが屹立して残る。校舎の建物の間を抜けると、田代八幡神社があり、その脇にタブノキの巨木がある。清川村のタブノキは古木の風格であるが、中学校の校舎の裏にある巨木は、若々しく空に枝葉を延ばし繁茂する。その全容は、八幡神社の急階段から眺めることができる。愛川町角田にも八幡神社があり、竹囲いのタブノキの巨木が残る。

●相模川・道志川流域の山間部になる清川村と愛川町の一町一村が相模国愛甲郡を構成する。歴史的には、現在の厚木市の一部も含まれ、郡衙は今の厚木市内の平野部にあったとの説もある。中世に、厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となり、後に安芸国に移転して戦国大名・近世大名の毛利家に成長している。愛甲の甲は、河(こう)のことだろう。北部の山間部は「奥三保」と呼ばれ、三浦半島にある地名を名乗る津久井氏が今の相模原市に城郭を築いてから平野部一帯の地名が津久井となって、愛甲郡から分離したという。清川村と愛川町のタブノキは、海から遠く離れた場所に植わっているが、相模国の山に分け入る谷川を遡る時に、その上陸地点の目印に植えられたのではないかと想像する。他の海岸沿いの地に育ったタブノキの巨木が航海の標識となったことに通じるものがある。

●愛川町の中津神社の夏祭りの一つで、神輿を担いで川に禊ぎに入る行事がある。列島の沿岸で繰り広げられる浜下りの儀式と本質的に同じである。相模国の一の宮は寒川神社であり、茅ヶ崎の西浜海岸では夜明けとともに茅ヶ崎市と寒川町の神社から三九基の神輿が集まり、海に入る浜降祭として有名である。南島における浜下りは旧暦三月三日の祭りとなっているが、これは、旧暦三月三日が潮の干満の差が一年間で最も大きい大潮に当たり、この日の干潮時に浜や干瀬が最も広がり、磯で魚貝を捕ったり海草を採ることが容易になるからである。愛川町の中津神社の前の小さな水路には豊富な水が滔々と流れていた。洪水になれば社殿を押し流してしまうことにもなるが、またの再生を期して、流れる川の杭となるような樹木を撰んで植え、営々と育ててきた歴史も偲ばれる。(つづく)

Kuroshio 163

鎌倉長谷寺十一面観音像は天武天皇

●鎌倉の長谷寺は、奈良桜井の長谷寺の開基を招請したから、奈良の長谷寺と同じ十一面観音像を本尊とする、と先回書いたが、案内書によると、養老五年に二人の仏師により巨大な楠の霊木から二体の観音像が三日三晩にして造顕され、一体は奈良の長谷寺の本尊となったが、もう一体は行基菩薩によって海中に投じられ、その後十五年が経った天平八年に相模国長井浦の洋上に忽然と顕れた。その報を受けた奈良桜井の長谷寺の開基、藤原房前(ふささき)によって鎌倉に遷座された、という。

●ところが、奈良の長谷寺そのものが、九州の筑紫から藤原氏の手によって移築されたとの説もある。建物は解体して運ばれたが、本尊の仏像は像高三丈三寸(九・一八メートル)にも及ぶ木彫仏であるから、筑紫の観音山から引き出し、筏にして筑後川を下り、有明海へ出て、そこから九州を南に回って薩摩半島を過ぎて黒潮の流れに乗せて運んだのである。しかも、もともと筑紫にあった観音像は、天武天皇が崩御された年に造られたから、奈良と鎌倉の長谷寺の観音像は、天武天皇に生き写しの像であり、仏像を納め観音経を説いた大官大寺は、今の福岡県朝倉市秋月近くの長谷山にあった観音堂に比定される。鎌倉の長谷寺に筑紫の長谷観音がはるばる筑紫の隠国の泊瀬から遷座して奇跡的に鎌倉に残り今日に至っているとする説である。鎌倉において日蓮は法華経を唱えて外国からの侵略の危険を説いたが、その法華経の「普門品第二十五」が観音経である。鎌倉幕府は文永の役、弘安の役という再度の蒙古襲来を辛うじて防いだ。唐の占領軍を九州から追い払った天武天皇が鎌倉に長谷観音として鎮座されていることは先回のタブノキ巡りの際にも気付かず、知識となっていなかった。

●北九州市の八幡市の出身で、横浜市役所に長年勤務した作田正道氏が、平成二一年から現地調査を開始して、四年の執筆期間を経て、平成二七年一二月に東京図書出版から出版した『あをによしの発見』は、筑紫にあった朝廷が八世紀の初めの西暦七二〇年に藤原不比等によって滅ぼされたのではないか、大和朝廷は長谷寺の観音像のように筑紫から移設されたものではないのか、日本書紀、万葉集、続日本紀の歴史記述は改竄されていて、壬申の乱の真相とは天武天皇による唐からの日本国の独立戦争であったこと、柿本人麿の万葉集の歌には、朝鮮半島で戦死した舒明天皇を偲ぶ歌があること、藤原鎌足は不比等の出自を隠すための架空の人物である、大宝律令の制定は、筑紫にあった朝廷により太宰府で行なわれた、等の真実をすべて消し去ったとしている。養老四年九月二八日の続日本紀の記述として陸奥国で反乱が起きたとするが、これを作田氏は「反乱ではない。反乱を起こしたのは藤原氏である。筑紫朝廷の持つ神性に忠誠を誓い、その優れた文化に心酔し、自ら日本国の一員であると認識していた東北の人々による、天皇への反逆者であり野蛮な文明破壊者である藤原氏に抵抗運動が起きたのである」とも書く。

●『あをによしの発見』は四◯三頁の大著で、第一章から第七章まである。第一章は「御井(みい)とは何か」と題して、筑後一の宮の高良大社の御井の地名に着目し、万葉集に現われる御井という言葉を全て拾い出し、合計八ヶ所が出てくることを発見して、これが福岡県中西部の高良山の鳥居前町の地名ではないか、高良大社とはどんな神社なのかを明らかにする。第二章「御井から見える伊勢神宮」では、万葉集の歌三首に基づいて、御井から伊勢神宮が見えることを明らかにし、筑後川河口付近の古代の有明海に、神風の伊勢の海の景色があったのではないかとする。吉野ヶ里遺跡が伊勢の斎宮であり、「山辺の御井にして作れる歌」の、海の底奧つ白波立田山いつか越えなむ妹があたりみむ、の有明海の大きな干満の差から生じて眼下の筑後川を白波を立てて遡る海嘯を詠ったとする。第三章は「万葉集52番の歌」と題し、四つの山を検証し、大分県九重町後野上に吉野神社を発見して、柿本人麿の歌う吉野川とする。通説はこの歌を藤原宮の御井の歌としているが、四つの山が示す都は藤原京ではなく、かつて大分県日田盆地にあった都を示しており、その都こそ、「あをによし奈良の都」であるとの結論を纏めている。第四章「天孫降臨」、第五章「神武東征」においては、葦原中国とは有明海北岸から筑後川流域を指し、天孫降臨とは現在の福岡市西区金武から背振山を越えて吉野ヶ里へ赴いたこととして、神武東征も天孫降臨の再現をしようとしたのではないかと論じる。第六章では、唐の占領軍が太宰府に駐留しており、天智天皇が筑紫都督として唐から帰還する前の西暦六七〇年に天武天皇が日田に奈良の都を建設し、壬申の乱は天武天皇による唐からの独立戦争とする。第七章は朝鮮半島における唐・新羅・高句麗・百済・倭国の関わりを支那の王朝変遷と共に観察し、舒明天皇の新羅との戦いでの戦死と白村江の敗戦、中大兄皇子の投降を三国史記等から推理、中臣金連の子藤原不比等が西暦七一五年に志貴皇子を暗殺し太宰府を侵略したと断じている。

(つづく)

Kuroshio 162

相模タブノキ紀行

●関東平野の洪積台地から相模湾に流れ出す河川のひとつが引地川である。神奈川県大和市の泉の森公園にある湧水を源流として、藤沢市の湘南海岸から相模湾に注ぐ、全長二一・三キロの川である。上流の川縁には千本桜の並木と遊歩道が整備され、中流部には今も水田地帯が残る。下流ではウナギの稚魚(シラス)が獲れる。古代には河川が交通の要路であった証拠に、川沿いに点点と古社が残る。小田急江ノ島線の桜ヶ丘の駅を下車して、引地川沿いに歩くと右岸に田中八幡宮がある。新道下、善光明、札の辻、代官庭という近隣集落の鎮守で、代官庭の田畝の中に鎮座したので、田中神社と呼ばれる。ご祭神は応神天皇だ。そもそも、八幡神社が、源氏が八幡神、応神天皇、百済崑支王を祀った社であるとすると、田中神社も、開拓民が波涛を越えて、引地川を遡って辿り着いた地点を記念する故地であると想像することは、これまで訪れた、霞ヶ浦の高浜神社の近くの台地の崖や、品川の鹿島神社近くの台地の崖にみられるように、引地川の段丘にも古くからの墓地が残ることから、上陸地として納得できる推論である。桜ヶ丘駅の隣駅の名称が高座渋谷駅であるが、相模国の高座郡の東側の中心地であったからである。高座郡の西部の海老名には国分寺があったし、寒川には一の宮として寒川神社が建立されている。引地川と、富士山麓山中湖を源流とする大河の相模川の豊饒の流域が高座郡となったから、相模国の中心として発展した。神社の密集地帯である。当初の高倉郡から後に高座郡に名称が変わっているが、高倉郡は高句麗を表す「高倉」の地名から採用されている。クラとは崖である。ちなみに、武蔵国の新座郡は、新羅人が中心になって郡が置かれたから新の字がついて、当初は新羅郡、「にいくら」としたことは、高座の場合も同様である。藤沢市に高倉という地名の町域が今もある。

●田中八幡宮の背後の河岸の段丘の上の私有地にタブノキの巨木が屹立している。樹高一七㍍、幹廻り三・七八㍍、樹齢約五〇〇年であり、大和市の重要文化財・天然記念物に指定されているとの標識がある。桜が丘駅から歩いて約半時間の距離である。高座渋谷駅からも同じような距離にある。地番は、「大和市代官一ー十九ー七」である。自然な枝振りで、枝も剪定されずに繁茂して、側道に垂れ下がっているほどだ。枝葉を観察するには、最適の木であり、名木と呼ばれるにふさわしいたたずまいである。坂を下ると、鬼子母神の御堂があり、神社ではないから柏手をうって参拝してはいけないと張紙がされていたが、日蓮宗の信徒の多い土地柄にもなっているのだろうか、田中神社にもお寺の影響があり、神仏混淆の気配が強いとの記述があるのは、土地柄がそのせいかと想像した。

●高座渋谷駅の駅前のビルの五階にはスーパー銭湯があって、夏の散歩の後に汗を流したいところだが、鎌倉に急いで向かうことにして、片瀬江ノ島行きの電車に乗った。鎌倉に行くためには、藤沢で江ノ電に乗り換えるのが便利であるが、終点まで小田急線に乗ったから、小田急線の終点から江ノ電の江ノ島駅までかなりの距離を歩くはめになった。江ノ電の長谷駅で下車して、線路にそって極楽寺方向に戻るようにして歩くと御霊神社がある。御霊神社には樹齢三五〇年。高さ約二〇㍍、幹の回り四㍍のタブノキが社務所の隣に聳えている。御霊神社の近くの長谷寺にもタブノキがある。鎌倉の長谷寺は、奈良の長谷寺の開基を招請したと伝えられ、本尊は奈良の長谷寺と同じく、十一面観音像である。タブノキは山門の左側にあり、大きなコブの幹があるが、枝葉は短く奇麗に選定されている。根元の近くには、若い芽がもやしのように生えて来ていた。寺域の中にもタブノキがあるかどうか、寺守の婦人に聞いてみると、境内入口の左隣にもう一本、タブノキがあるという。紫陽花寺として有名であるから三〇〇円也の拝観料を支払うと、確かに「椨の木」と札のついた木が寺務所の脇にすぐ見つかった。本堂からの帰りの坂道の出口の崖にある樹木もタブノキではないかと思ったが、逆光で判別できなかった。

●長谷寺から歩いて五分の甘縄神明宮にはタブノキが繁茂している。祭神は天照大神で、行基が草創し、豪族の染屋時忠が建立した、鎌倉で一番古い神社だという。長谷の集落の鎮守で、公会堂があり、神輿が二基保存されている。甘縄の「甘」は海女で、「縄」は漁をする時の縄だろうとの説があり、源頼義が祈願をして義家が生まれたと伝えられ、後に義家が社殿を修復し、源頼朝も社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたといわれる。北条政子や実朝も参詣したと伝えられ、石段の下には、「北条時宗公産湯の井」がある。近くに作家の川端康成の旧宅があり、小説「山の音」に登場する神社がこの甘縄神明宮だとのことだ。御霊神社、長谷寺、尼縄神明宮のそれぞれのタブノキは、相模の国の海岸段丘の崖に黒潮の民が手ずから植えたのだ。神明宮の高さが昔の津波の波頭が到達した高さを今に伝えているのではないかと想像することしきりであった。(つづく)

Kuroshio 161

グローバリゼーションの虚妄

●グローバリゼーションと称し、地球がどんどん小さくなって世界が一つになり、国境が無くなったなどという、流行の袢纏(はやり はんてん)の言説がある。煽り立てている連中が、自らの言語や制度を優位として押しつけているだけのことだ。これは選民の思想、あるいは唯我独尊の中華思想であり、いつも損をする役回りの諸国民や周辺民族からは抵抗が起きている。米国ではトランプ候補が出現し、欧州では英国の欧州連合離脱が現実の課題となった。世界はどんどん内向きになり、外界の影響から自らを遮断しようとする。外国人が地下鉄や電車の中で大声を張り上げていても、遠慮深い日本人は注意をしようともしないが、江戸時代の鎖国ならずとも、音楽から映画や横文字に至るまで何とか外国勢力と関わりを持たずにいたいとの思いが強くなってきているようだ。実際、英文学も独文学も仏文学もどんどん全集の出版点数も読む人も減り、女子大の看板学部も外国文学からはどんどん遠ざかっている。邦画を見る人の数が増えており、ハリウッド映画を見る人の数は増えていない。テレビ局が韓流ドラマを流しても、勧善懲悪に留まらないで陸封文化の政治宣伝の匂いがついた瞬間に隣国への関心は潮が引くように消えていっている。もはや若い日本人はハリウッド映画に近親感を持っていないようで、むしろ欧州の古い伝統文化に、親しみを感じる向きが増えている。音楽だってそうだ。いまだに何々音楽事務所とやらがテレビ番組などを仕切ってはいるが、現実には外国のタレント歌手が全国の会場を回る数はめっきりと減っている。それよりむしろ、日本の漫画が外国を席巻して、「おにぎり」なる食物を食べてみたいと、イタリアの子供が言ったとの話もある。ドラえもんがタイでドラモンとなって子供の贔屓を得たのは、もう二昔以上前になる。フジモリ大統領の娘はペルー大統領選挙に挑んだ。

●日本の大企業は外国への留学制度をさっさとやめてしまった。折角カネをかけて留学に送り出したのに、外資企業に引き抜かれてしまう者が続出し、裁判をしてカネ返せと主張した証券会社が出たことも一因であろう。確かに外国礼賛で凝り固まり買弁のようになって帰国する者もいる。なかには洗脳されてエコノミックヒットマンと化す人物がいたりするのも、深刻な現実の話である。中南米に起きたシカゴボーイズや、インドネシアのスタンフォードマフィアのような人士が外国勢力に操られて手先となり、内紛を起こしたことは有名であるが、最近の日本の大企業の社外重役に、外資コンサルのOBが続々と就任しているのも気になるところである。ましてや外国の保険会社の代表が、露骨に国策企業の役員に就任するという隷属・利益相反も発生している。政治家にも、外国留学帰りで、外資コンサル、あるいは外資金融機関のOBが増えているのは気になる。大企業の経営者などは、英米に行くと、英語を喋ることがこれから必須になる、グローバリゼーションを乗り切るためには、英語教育を必須にする必要があるなどと説教する反面で、東南アジアに行くと、なぜ日本語を使わないのか等と急に横柄になることもまま見られる。最近は、欧米への留学など無駄だ、特に一般教養を欧米に行なって学ぶことなど無駄だ、留学させるならその経費で上海や北京やバンコクで、あるいはニューヨークで現場実務の研修の方が役に立つと託宣する内向きトップ経営者が多数を占めるようになり、たかだかロンドンやジェノヴァで日本からの輸出品の通関や苦情処理をしただけで、後は本社幹部の豪遊を接待する能力が長けていて出世したような話が、外国駐在話の典型となった。ニューヨーク駐在員や外交出先も、旅行業者顔負けの観光案内に時間をとられていることも事実である。役員会議で英語を使うことにしたとか、会社のロゴマークを横文字にしたとかの大企業もあるが、成功例は見当たらない。パナマ文書に名前が載っていたことから判明したように、外国金融勢力のコンサルの薦めに従っていただけという杜撰な話である。これからは、ものづくりの製造会社も部品を外国に注文して、組み立て合体する企業に脱皮するのだと豪語した日本の代表的な電機会社の社長は、自らの発言の甘さと誤りに気付いて、早々と憤死してしまった。ニューヨークに上場した企業の社長などは、相手が接待上手で、自家用の飛行機を使ったり、フラッシュを焚いた大記者会見を開いたり、あるいは、キャデラックの後席に対面ソファがあるリムジンの車を用意して歓待するものだから、自分が世界に冠たる経営者にでもなった気分がするようで、IR・投資家対策と称し、単なる外国の物見遊山にドルの大枚をはたいて散財を重ねた例が多数ある。日本でカネが余ったとて、外国に上場する必要など更々なかった。島国根性は英国では嘲りの対象でない。今もグレイトブリテン島と北アイルランド連合王国が正式国名だ。ドバイ、インド、シンガポール、豪州、カナダやカリブに総督を置いている。日本もグローバリゼーションに対抗できる、世界の情報に通じた八紘為宇の大日本(おほやまと)の島国に戻ろう。   (つづく)

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